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ハルは失踪直前にとんでもない置き土産を残していった。プログラムの中に仕込まれたブラックボックス。
「こんなものを発表するわけにはいきませんよ。責任が持てない。『fragment』は延期するべきだ」
カーシュは言った。
「そいつを削除するのにどれだけかかる?」
社長が言うと、彼は言葉に詰まった。
「今プログラマー総出で取り掛かっています」
「だから、いつまでに終わる?」
カーシュはマッギヴァーンと目を合わせ、首を振った。
「わからない」
と、彼は言った。
「今のところ、中身をのぞくことも、削除することもできない。無理に取り除こうとするとクラッシュする」
「いいか。もう公開日を決めて、パブもうっている。ALTIMIT社もそのスケジュールで動いてる。このソフトは俺たちだけじゃない。たくさんの人間が関わっているんだぞ。今から遅らせるわけにはいかない」
社長はニカに厳しい目を向けた。
「ニカ。君はハロルドを指導してた。彼のおかしな兆候に気づかなかったのか」
彼女は唇を噛んだ。そのことに関して言葉もなかった。
「彼女だけのせいじゃない。俺たちは全員あのクソったれに一杯食わされたんだ」
「その通りだ。だが、幸いにもゲームは動く。何の問題もない」
マッギヴァーンが慎重に言葉を選んで言った。
「問題がないように見えるだけです。中で何をしているのかわからない。もしウィルスか何かが仕込まれていたらどうします? プルートキスのような最悪のプログラムが仕込まれていたら?」
「とにかくだ。スケジュールを遅らせるわけにはいかない」
社長が断固として言い張った。
「『ALTIMIT OS』にウィルスは通用しない。そうだろう? お前らの言ってることの意味はわかるし、心配するのも理解できる。だがそれは杞憂というものだ」
結局、状況は何も変わらなかった。
ハルが行方不明となっても、当初の予定通り七月に『fragment』は公開された。
そして2ヶ月と少しで終了となった。
公開期間中CC社のスタッフは何もしなかったわけではない。
カーシュたちは必死になってブラックボックスの解析に努めた。
だが、何をしても歯が立たないとわかったとき、彼らの間に一種の無力感が漂いはじめた。
天才との差を如実に思い知らされたのだ。
『fragment』は大成功のうちに終了した。しかし『The World』が始まると、社員は一人、また一人と辞めはじめた。水が変わったということもあるのだろう。小さなベンチャー企業が大企業へと成長する過程における変質。
カーシュもマッギヴァーンも辞めていった。
社長も交代した。開発に携わったすべてのメンバーが転職していった。
しかしニカだけは会社に残り続けた。
ハロルドが残した『The World』を見守りたかった。
時が経つにつれて彼女は出世し、名刺のインクが乾く間もないほどに肩書きが変わっていった。かつて彼女が望んだようにこの業界で成功し、高給を得るようになった。
たまに業界紙などのインタビューを受けると、だいたい決まって次のようなやり取りがある。『The World』の開発に携わられたそうですね。『The World』に愛着をお持ちなのですね。
ええ、そうですね、とヴェロニカ・ベインは答えるようにしている。
私ほど『The World』を愛している人間はいないでしょうね。
ハルは失踪したとき、ブラックボックスだけを残したのではなかった。
その作成に用いた開発ツールも一そろい放置されていた。それはハルが自分専用のものとしてわざわざ用意したものだった。それを当時のカーシュたちに見せたところで、あまりにも独創的過ぎて手に負えず、おそらくは事態は何も変わらなかっただろう。
ニカ以外には。
彼女は開発ツールを他のスタッフには見つからないように隠した。
ニカはハルの仕事ぶりを常に近くで見ていた。
ニカだけはハルの残した開発ツールを使ってブラックボックスを突破し、その奥に眠るものを読み取ることができたのだ。
事実、彼女はハルが失踪する前から自分の力だけでブラックボックスを覗いていた。
そして様々なことをおぼろげながら理解していた。
ハルの苦悩。黄昏の碑文。エマ・ウィーラント。そして娘アウラ。
ハルが何を望み、このサンディエゴにやってきたのか。
全てを知った後でニカは自問自答した。
私は『The World』を見守りたい。その気持ちに嘘はない。
天才ハロルド・ヒューイックの作品には保存されるべき価値がある。
だが、そこにエマ・ウィーラントは不要だ。
アウラは不要だ。
そんなものはいらない。
必要としない。
そこで、ハルの開発ツールを使って、彼女はプログラムコードにほんの少しだけ手を加えた。
システムの自己認識能力に歪みが生じるように
それがどのような事態を引き起こすのか全てを予見していたわけではない。ほとんどはずみのような行動ではあった。
だが、ハルを苦しめた不誠実なエマとその子どもにはすれ違いが起こるだろう。それがどのような事態を引き起こすのか。彼女には確信めいたものがあった。
ニカはハルの残した『The World』を見守りたい。
偽りの家族が迎えるにふさわしい結末がきっと見られるに違いない。
(続く)