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その日、学校の授業が終わり、家に帰ってくると、両親は不在だった。
日課となっているゲームの用意をしていると、先に帰っていたらしい妹が部屋にやってきた。
彼女は何気ないふりをしていたが、僕は
用事があるからわざわざ僕の部屋にやってきたのだ。それくらいのことはわかる。
「――ねえ。おにいちゃんの学校で倒れた人、いるんだって?」
ドアのところに立ったまま、妹は言った。
「いや、知らないな」
僕は咄嗟に嘘をついていた。
「そんなの、どこで聞いた?」
「学校で。先生が言ってた。『The World』ってゲームをしないようにって。近所で倒れた生徒がいるからって」
「ひどい先生だな。生徒の不安をあおるようなことを言うなんて」
「ふーん……」
妹は気のなさそうな声で返事をした。
だが、妹はまだ部屋を出て行かない。彼女が本当に言いたいことは他にあるらしい。
僕はFMDを持ったまま、妹が口を開くのをじりじりと待った。
やがて妹が言った。
「ねえ、引越しのこと聞いてる?」
「引越し?」
「来年また引越しするかも知れないって……」
初めて聞くことだった。
「初耳だな。本当なのか?」
「たぶん。お父さんがお母さんに言ってたの、聞いたの」
僕は黙り込んだ。
いくらなんでも引越しして一年もたたずにまた次の場所に引っ越すというのは僕の記憶の限りではなかったと思う。
僕はFMDを机の上に置いた。器具を長いこと持ち続けていたせいで掌に汗をかいていた。
「もう引っ越すの嫌」
妹が言った。彼女は泣いていた。
「引っ越したくない。友達できても、いつも……」
僕は椅子から立ち上がると、妹の手をとり、居間に連れて行った。
ソファに座らせると、妹の隣に座って彼女が泣きやむのを待った。
妹が鼻をすすり上げたので、テーブル上の遠くに置いてあったティッシュの箱を引き寄せてやった。
彼女は一枚つかみ上げて鼻をかんだ。
僕は不意に見た妹の激情に驚いていた。
妹は僕たち兄妹の宿命ともいうべき引越しの連鎖について批判や恨みがましいことなど一言も言ったことがない。だから彼女はそういった事柄に対し僕以上にうまく適応して折り合いをつけているのだとばかり思っていたのだ。
やがて妹の嗚咽は静かになった。
僕は頃合を見計らって言った。
「でも、はっきり言われたというわけじゃないんだろう。引越しするって」
「うん。立ち聞きした」
「じゃあ、お前の勘違いってこともある。だいたい、僕がそんな話を聞いてないんだから」
僕は言った。
「タイミングをみて、僕が父さんに聞いてみるよ。お前は何も気にしなくていいから」
妹は返事をしなかった。
わかっている、論点のすり替えだ。
彼女はもう引越しをしたくないと言っているのだ。
でもそれは僕にはどうすることもできないことだった。
(続く)