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「――は、どうなんだろうな?」
ヤスヒコが言った。それは独り言のようでもあったし、質問のようでもあった。どうとでも言い換えられるような言葉の発し方、抑揚、物の言い方だった。彼自身にも明確にどちらであるという意図はないように思われた。だが、強いてどちらかと聞いたならば、おそらくは独り言ではなく、質問であると答えただろう。なぜなら僕が目の前にいるのだから。つまり彼は僕に対して質問したのだ――というようなことを僕は瞬時に判断した。
それまで目を通していた数学の教科書から顔を上げると、僕は彼の顔を見た。
「ごめん。ちょっとよく聞き取れなかった」
「つまりさ」
ヤスヒコは深く澄んだ瞳を僕に向けだ。
「トラとライオン、どちらが強いんだろうってことだよ」
「なるほど」
僕はうなずいて教科書を閉じた。
「俺、ずっと疑問に思ってたんだよな。トラとライオンが戦ったら、どっちが強いだろう? この地球上で一番強い猛獣は何だろう? てね」
「でもそういう話、今までしたことないよね」
「まあな。心のうちに秘めていたんだ。悩める思春期にふさわしく」
「へ……へえ?」
放課後。いつだったかは忘れた。
僕とヤスヒコは教室でだべっていた。もちろん僕の教室だ。よその教室に僕は行かない。
「こういったことを、ほとんどの奴が一度は考えたことがあるに違いない。そうだよな?」
「まあそうかもしれない」
僕は控えめに答えた。
「でも、とことんまで突き詰めて考えた奴はあまりいない」
「そうだね」
「で、考えてみた。本を読んだり、ネットで調べたりな。で、結論は……」
「人間だろう」
ぼくは言ってみた。
ヤスヒコは少し傷ついたような表情をした。彼の顔を見て僕は先走った自分の態度を内心反省した。
「あのさ、お前の言いたいことはわかるよ。『武器を持った人間が一番強く恐ろしい』。でもそうじゃない。今はそういうことを言ってるんじゃないんだ」
「ごめん。ちょっと思い付いちゃったから」
僕は素直に謝った。
「ところがだよ。大本命は他にいたんだ」
ヤスヒコは気を取り直すように咳払いして続けた。
「トラとライオンは所詮二流のプレデターに過ぎない。連中は前座なんだよ。そう、最強とは……シャチのためにある言葉なんだ」
「シャチ? 水族館にいるパンダみたいな模様の?」
ぼくはちょっとびっくりして尋ねた。
「水族館にもいるし、野生にもいるよ」
「海の生き物だろ?」
「そうだ」
ヤスヒコはうなずいた。
「高い知能を持ち、群れで行動する。泳ぐ速さは最高時速七十キロ、哺乳類では最も速く泳ぐことができる。獲物を追いかけるとき、群れで連携して、逃げ場のない都合のいい海面へ相手を追い込んでいく。ホオジロザメなんて彼らにとっちゃ朝食なんだ。捕まえて頭からばりばり食べちまう。まさに地球が生み出した最強の生命体」
「だけど、それはおかしいよ」
僕はヤスヒコの解説をさえぎった。
「シャチは海の生き物で、トラとライオンは陸の生き物だ。戦いは成立しないよ。どちらが強いかなんて決められない」
「なるほど。お前はトラ・ライオン派というわけだ」
「別にそういうわけでもない」
「猫科こそ最強だって信じたい気持ちはわかるよ。俺にもそういう時期があったからね」
「まあいいけど」
「なあ、不思議な空間があると仮定するんだ。そこでは海の生き物は海のように行動できる。同時に、陸の生き物は陸のように行動できる」
僕は彼の言う通りに想像してみた。
「仮想空間?」
「いい表現だ。そう、仮想空間。そういうゲームがあると仮定する。格闘ゲームでいい。そこで向かい合うシャチとライオンあるいはトラ。さあ、どっちが強い?」
僕はしばらく考えた。
「説明書を見せてくれないとイメージできない」
「やれやれ」
(続く)