小説目次
ボタンをクリックすると開きます
まず言い争いのきっかけを作ったのは妹の方だった。
いや、ひょっとすると問題は僕にあったのかも知れない。違うのかも知れない。そのあたりは認識の相違でどうにでも変わる。
とにかくその日は十一月の土曜日で、僕と彼女は台所のテーブルに向かい合って座っていた。
両親はそのとき不在だった。僕は彼女の作った昼飯のチャーハンをレンゲで食べようとしていた。正確には
「このチャーハン、いいね。おいしいよ」
と、僕は言った。
まずは感謝の気持ちを示す。人として当然の気配りだ。
「そう? ありがと」
と、妹は言った。
次に要求を出す。
「スプーンをくれないか」
「どうして?」
妹は純粋な瞳で僕を見た。そこには兄に対する敬意のようなものがまだ幾分かはあったように思う。
「これは使いづらい。食べにくいんだよ。こんなんじゃあ飯をすくえない」
彼女は瞬きした。ただそれだけで瞳から敬意の光が消えてしまった。
妹は散蓮華でたくみにご飯を一盛りすくい、口の中に入れた。
「あんたが不器用なだけじゃん」
「そうだな、僕が不器用なのは認めるよ」
僕は辛抱強く言った。
「でも、それと散蓮華が使いづらい食器だってことは別問題だ。このさじには欠陥があるんだよ」
そこまで言ってから、僕はこの散蓮華とチャーハンの皿を含めた中華食器セットが、一年前に妹が小学六年生の修学旅行で中華街に行った時に買ってきてくれたおみやげだったということを思い出した。
でもここまで喋ってしまっては途中でやめるわけにはいかない。
「日本で普通に使われてる散蓮華は、本来はスープで使われるべきものなんだ。中国では用途別に散蓮華が分けられていて、スープ用の散蓮華はスープで使われるし、チャーハン用の散蓮華はチャーハンに使われる。でも」
僕は手の散蓮華を示した。
「なぜか日本じゃスープ用の散蓮華しか販売されていない。ラーメンもスープもチャーハンも酢豚もマーボー豆腐も、あらゆる中華料理でスープ用の散蓮華を使うことを強いられてるんだ」
「それで?」
と、妹は聞いた。
「そのどうでもいい
それで?
どうでもいい?
なんという思い上がった言い草だろう。
兄として何か一言言ってやらなければならない。このままだと、たぶん後々のためにならない。 僕はそう思った。
「スプーンをくれ」
「自分で取りなさいよ」
僕は立ち上がり、妹の背後にある食器棚から大きいスプーンを取り出すと、また元の席に戻った。
それでひとまず話が済んだように僕は感じていたのだが、妹にとってはそうではなかったらしい。彼女はさらに言い募った。
「あんたはものの見方が意地悪すぎるのよ。偏狭な性格なんだから」
「難しい言葉を使うね。どこで覚えたの?」
「外面だけ良くって、中身はひねくれすぎてる」
僕は自分でも知らないうちに何か彼女の踏んではいけない箇所を踏み抜いてしまったようだった。
最近そういうことがよくある。たわいのない話をしていたはずなのに、ふと気づくと彼女が静かに怒り始めているのだ。
でもその責任の半分は彼女にあると思う。何が地雷なのかを説明してくれなければ僕には対処のしようがない。
それからしばらくの間、僕たちは黙っていた。
やがて僕は食べ終わり、空になった食器を重ねて流しのほうに持っていった。
背後で妹が言った。
「明日、友達が来るから」
「来るから?」
「一緒に勉強するの。邪魔にならないようにして」
「僕はお前の友達の邪魔をしたことなんか一度もないよ」
妹は答えなかった。
ふと気になって聞いてみた。
「来るのは何人?」
「三人」
「女子だけ?」
その問いに、妹は少し言葉に詰まった。
「女の子は一人」
「ふーん」
と、僕は言った。
「ふーんって何?」
妹はかみついた。
「ふーん、なるほどね、ほへぇー、という程度の意味だよ」
「すぐそうやって人を小ばかにするんだから」
ぷりぷりと怒って妹は言った。
「そんなんだから、友達もできないのよ」
「おっとひどいな。いくら兄妹でも今の言葉には傷ついたよ」
妹はチャーハンを食べ終えると、コップの水を飲んだ。
それから一息ついて、まっすぐに僕を見た。
「嘘つき」
彼女は言った。
家族について簡単に書く。
僕の父親は四十歳。
ちょっとした規模の商社に勤めている。全国に展開しているボランティア団体との取引を主な業務としていて、そのせいで転勤がうんざりするほど多い。
母親は父親と同い年の四十歳。
彼女は引越しの多さについて文句を言ったことはない。ひょっとしたら、僕たち子供にはわからないように何か愚痴を言っているのかもしれないが、少なくとも僕は聞いたことがない。
彼女は専業主婦だけれど、父親の転勤にはなくてはならない存在だ。彼女が荷造りや引越しの手配を引き受けているのだ。彼女がいなければ、父親は引っ越しどころか二泊三日の出張の準備さえおぼつかない。
妹は十三歳。
最近特に生意気になった。口やかましくて、どうでもいいようなことで言いがかりをつけてくる。
僕の家族は以上だ。みんな、善良な人たちだ。
長男が突然怪しい器具を顔面に装着するさまを目撃したら、ちょっとした騒ぎになること間違いなしだ。
家族に関する補足。ペットはいない。
昔、ハムスターを飼っていたが、何度目かの引越しのときに飼育ケースが割れて隙間から逃げ出してしまった。その行方は
たぶんどこかの原っぱにたどり着き、そこで天寿を全うしたのだろう。
僕が転校慣れしているのはもちろん父親の仕事のせいだ。小学生のときに三回、中学生にあがってからは一回の転校とそれに伴う引越しを経験している。二年に一度のハイペースぶりだ。
僕の机の奥の引き出しには、その時々のクラスメイトからもらった寄せ書きの色紙がまとめて突っ込んである。それらにはもう顔も忘れてしまった皆からの、心のこもったメッセージが書き付けてある。読み返したことはほとんどない。
もし僕がこの先何かの弾みで重大な犯罪を起こしたとしたら、たぶんそのあたりを徹底的に追求されるような気がする。
「俺、ネットゲームをやっててさ」
放課後、得体の知れない柔らかい笑みをニホリと浮かべて――ニコリではない――ヤスヒコは言った。
彼がこんな話し方をするのは初めてだ。
「ネットゲームって?」
「最近テレビでよくやってるだろ。『The World』だよ」
「ああ……」
僕は曖昧な声でうなずいた。
それなら知っていた。
発売自体は三年程前だが、つい最近累計販売数が二千万本を突破したとかでやたらテレビCMが流されているやつだった。
「君もやってみたらどうだい」
ヤスヒコは言った。
「『君も』? 『だい』?」
実に気持ち悪い。
「接続だって簡単にできるしさ。設定がわからなかったらやってやるから。お前、ゲーム好きだろ」
「いや、別に」
「そういう人にこそ『The World』をオススメしたいな」
「僕にとって、ゲームはもうGIGAだけで満足なんだ。それ以上はいらないし、他のものをやりたいなんて思わない。ましてや、ネットゲームだなんて敷居が高すぎるよ」
大多数の人にとってそうだと思うけれど、ゲームは、僕にとってもただの暇つぶしの道具だった。あるいは、若干、ほんの少しばかり、それ以上のものだったかもしれないが、まあ誤差の範囲である。
「うんうん、その通りだね」
ヤスヒコは何もかもわかっているといった風情の顔でうなずいた。
「でも、そういう人にこそ『The World』をオススメしたいな」
あ、なるほど。そういう作戦か。
僕は返事の仕方を変えた。
「
ヤスヒコはぐっと言葉に詰まった。が、めげずに言った。
「大丈夫。すぐに慣れるから」
「他の人を誘ったら?」
熱心に勧誘を続けるヤスヒコに、僕は彼のグループにいる何人かの名前を挙げた。
「いや……あいつらは駄目だ」
「なぜ」
ヤスヒコはそれには答えなかった。
「お前と冒険したら、面白いって予感がするんだよ」
と、彼は言った。
「それに、お前には『The World』が向いてると思うんだ。一度でもプレイしたら、きっと気に入ると思う。コントローラが手放せなくなるくらいに」
(続く)