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家に帰ると、居間に父親の姿があった。この時間帯には珍しいことだ。
無精髭をまばらにはやし、頬が心持ちやつれていたが、その表情は明るかった。たぶん今まで抱えていた仕事がうまくいったのだろう。
彼の前にはトマトジュースの缶と湯のみがあった。
トマトジュースをお湯で割って飲んでいるのだ。
彼は顔を上げて僕を見た。
「お帰り」
「ただいま」
僕は部屋に帰ると一旦荷物を置き、すぐに居間に戻った。
父親はウィスキーの入った小瓶を取り出してテーブルの上に置くところだった。
「久しぶりに休みが取れたからね」
と、父親は弁解がましい口調で言った。
「それで少し飲もうと思ってね。ちょっと早いけど、別に良いだろう」
全然悪くない。全く構わない。
僕の見るところ、父親は酒や煙草がそれほど好きではないように思う。実は苦手なのではないかと思うことがある。それなのに、家族の目があるときに限って、今のように露悪的な態度をとる。この人はどうも年齢の割にそういった嗜好品をかっこいいと思っている節があるのだ。
でも僕は知っている。彼が使い回して愛用しているウィスキーの小瓶にはディスカウントショップで購入した養命酒が詰め替えられていることを。
しかしそんなことはどうでもいいことだった。もっと他に言うべきことがあった。
「聞きたいことがあるんだ」
「ふん? どうぞ」
「引っ越しをするって本当?」
父親はウィスキーの瓶の蓋を開けようとしていた手を止めた。
「母さんから聞いたのか?」
僕は首を振った。
「妹から聞いた」
「そうか」
うなずいた。
「そうだ」
僕は目を閉じた。
全身の血が薄くなっていくような心持ちがした。「僕はもう引越ししたくないよ。この街から出たくない。転校するのはもう嫌だ」
ふと気がつくと、僕はただ自分の思っていることを父親に訴えていた。
計算も何もなかった。
打算もすべて消えていた。
「うん、そうだよ。だから」
父親はきょとんとした口調で言った。
「冬休みに入って時間ができてから、お前たちに言おうと思ってた」
「三学期になつてから転校するってこと? 嫌だ、転校したくないんだよ」
「うん、だから」
父親が言った。
「たぶん、何か勘違いがあると思うけど、引っ越すのは父さんだけだ」
「え?」
「一年も経たずに引っ越すのはきついから、母さんと相談して、父さんだけが単身赴任するんだよ。父さんだけ引越し。週末は戻ってくるけど」
めまいがした。
僕は力が抜けてソファに座り込んだ。
妹の言葉を思い出した。
『お父さんがお母さんに言ってたの、聞いたの』
『立ち聞きした……』
あのまぬけな小娘は聞き間違えて早とちりをしたのだ。
いや、今の流れだと両親の言い方にも問題があるように思う。
一ヶ月ひっぱってこれか。
「――今まで済まなかった」
僕が呆然としていると、父親が急にあらたまった様子で頭を下げた。
「引っ越しを繰り返して、負担をかけさせてしまった。無理させてしまった。お前たちは文句ひとつ言わなかったけど、それについ甘えてしまっていたんだな。すまん」
(続く)