小説目次
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雨は降る、
生きている者も死んでいる者も等しく雨に打たれ、洗われていく。
その男は、雨に打たれながら、もう半刻ほども墓の前に佇んでいた。
霧の如き小雨が、周囲の全ての色と音をかき消している。
何もかもが雨に沈んでいくように見える。
墓地。朽ち果てていく者たちの場所。最後のそして永遠の安らぎの場所。人間のありとあらゆる営みは、結局沈黙の中へ帰っていく。
男ははるか彼方のベルリンからやってきた。飛行機と電車を数回乗り継ぎ、公共の乗り物がなくなってからはひたすら歩き続け、このニュールンベルクの田舎村にたどりついたのだ。
彼が目指したものは今、目の前にある。
十字架や墓石が整然と立ち並ぶ、その一角。
彼は跪き、生前の「彼女」には甚だ似つかわしくない無骨な墓石を見つめる。まだ真新しい。文字がくっきりと刻み込まれている。
エマ・ウィーラント
伝説の紡ぎ手、ここに自らも伝説となる
男は傘を持っておらず雨合羽も着ていない。
彼は雨に打たれながら膝を突いている。冷たくぬかるんだ泥がズボンを侵す。湿気と寒さが衣服を通して彼の身体の表面に染み込んでいく。
墓地は依然として静まり返っている。
ただ雨の音だけが、水と草とに鳴る。
「まだ終わりじゃない……」
やがて男はつぶやく。
「僕が終わらせはしない……」
きびすを返して墓地を出る。
雨の煙る中を、男は決然とした足取りで歩んでいく。
墓から遠ざかるにつれて、男の姿も吸い込まれるようにして景色の中に溶け込み褪せはじめ、やがて完全に雨の中へ沈んでいく。
(続く)