3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

42 エピローグ

ふと気づくと、暗闇の中に顔が浮かんでいる。

とてもよく見知った少女の顔。

整った眉が下がり、心配そうな表情で曽我部を見下ろしている。

すっ、とその顔が遠ざかった。

また別の顔が現れた。

男の顔だ。これも知っている。広い額、意志の強そうな眉と鼻。気難しげで厳しい表情を浮かべている。

三つ目の顔が現れた。

この顔は知らない。誰だろう。白衣を着ているらしかった。

先ほどの男が関西弁で言った。

「具合はどんなんです?」

「ひどく衰弱している。一週間ほど安静にする必要がありますね」

白衣の男が答えた。

「そんなにも?」

少女の声が心配そうに言った。

「今何時だ?」

曽我部は尋ねた。

「リュージ、目が覚めたの?」

「譫妄状態でうわ言を言っているだけです」

「いや。もう大丈夫だ。何時か教えてくれ」

曽我部は手をついて上半身を起こそうとした。

気を失った。

 

ふと気づくと、曽我部はどこかの湖のほとりに立っていた。

すぐ近くに巨大な鼠が一匹いて、水を飲んでいた。

なぜか嫌悪は感じなかった。

大鼠は起き上がって顔を曽我部に向けた。

「我々は皆、遊戯(ゲーム)の駒(キャラクター)に過ぎない」

鼠はきーきーと鳴きながら言った。

「そんな気がしていたよ」

曽我部は言った。周囲がとても静かだった。

凝固した静けさが空から降ってきているようだった。

 

ふと気づくと、傍らにリーリエがいて、曽我部の顔を覗き込んでいた。

「目が覚めた? ちょっと待って。先生を呼んでくるから」

すぐに医者らしき男を連れて戻ってきた。

「ここがわかりますか」

「病院」

「そうです。ここは病院です。気分はいかがです?」

「病院に入院しているような気分だ」

「あなたは二日前に搬送されたんです。ご安心ください。当病院はCC社の援助を受けていますから」

「CC社?」

「はい」

「不安だ」

再び意識が遠ざかり始めた。

 

結局、完全に意識が回復するまでに八日かかった。

退院の一日前にデビッドがやってきた。新聞の束を抱えていた。

「調子はどないや?」

ベッドの中で曽我部は首を振った。

「もうプロ野球選手になる夢はあきらめるしかない」

「さよか。そら気の毒やな」

新聞紙の束を枕元のキャビネットへどさりと置くと、パイプ椅子を引き寄せて座った。

「曽我部はんが意識を失った次の日からの朝刊や。あんたが自分で働いた成果を目で見たいやろ思うてな。とっといたんや」

曽我部は新聞をいくつか手に取り、ざっと流し読みした。

「何も載っていませんね」

「そうや。あの日、夕方を過ぎても何も起きへんかった。集団飛び降り自殺はなかった。セトの鼠をキャンセルできたんや」

デビッドはうなずいた。

「ガスと、トラヴィス・ボンドの意識も回復したわ。二日前にな。みんな、あんたのおかげやで」

「それはよかった。ところでデビッドさん。お願いがあるのですが」

「なんや?」

寝ている間に頭の中で様々なことがまとまりかけていた。その裏付けが必要だった。

「NABには黒い森の資料がある。そうおっしゃってましたよね」

デビッドはうなずいた。

「去年、担当者が調べ上げたファイルやな」

「それを見せていただきたいんです」

デビッドは怪訝そうな表情で曽我部を見た。

「まだなんか気になることでもあるんか?」

曽我部は首を振って否定した。

「いいえ。話の概要をさっと確認しておきたいってだけです。大したことじゃない」

デビッドは疑わしげな目付きで曽我部を見ていたが、やがて小さくうなずいた。

「あんたが居らんかったら、今回の事件は解決せえへんかった。まあええやろ。あんたに渡すよう赤坂に頼んどきますわ」

「ありがとう。恩に着ます」

それからしばらくの間、デビッドは沈黙した。次の言葉を言うべきかどうか決めかねているようだった。

「なあ、曽我部はん」

おもむろにあらたまった口調で言った。

「仮に、その気があったらなんやけどな。NABは優秀な人材を求めとんねん」

「ぜひ探すべきですね」

曽我部は微笑して言った。

「ま、そうやろうな。そういうやろなとは思ったわ……」

デビッドは椅子から立ち上がった。

「ほな、行くわ」

曽我部を見て右手を差し出した。

「えらいお世話になりました。リーリエさんによろしゅう言うといてください」

曽我部は布団から右手を出して、彼の手を握った。

二人で握手した。

「――アウラの手がかりはつかめたのですか?」

手を離してから曽我部は尋ねた。

「おかげさんで」

にやっと笑うと、デビッドは病室を出て行った。

それからまる一日、曽我部は天井を見上げて過ごした。

瀬戸は死に、鼠は消え、CC社の機密事項は守られた。ハッピーエンド。物語は終わりつつある。曽我部のプロ野球選手入りの夢を代償にして。これからはもう青山あたりのオシャレなカフェのマスターを目指すしかない。

だが、本当にそうだろうか?

「もちろん違う」

曽我部は声に出して言った。

まだ最後の問題が残っている。それを片付けなくてはならない。

 

ネット電話で画面越しに見る彼女は十代後半もしくは二十歳になったばかりのように見えた。

「ふーん。あんたが『フリューゲル』か」

くだけた英語でそう言うと、じろじろと曽我部を見た。

「……あんた、独身か?」

「そうだよ。お、なーに。俺に興味深々?」

「見た目が小汚えからよ」

「ああ、そう……。ま! そういう物の見方もあるかもね」

曽我部はうなずいた

「調子はどう。回復した?」

「元気っていや、元気だな。CC社との契約も切れたしな。KKのツラを見なくて済む」

彼女は言った。目も鮮やかな白金の髪をショートカットにしている。小柄で細身。座っているので身長はわからないが、ソフィア隊ウーラニアを操作してドレインと互角以上に渡り合ったプレイヤーにはとても見えない。

「――ネット電話にしたのは、あんたのリアルの間抜け面をちょいと見たかっただけだ。それ以外に意味はねぇ。あんたに頼まれた奴はもうメールで送ってる」

彼女はそう言ってそっぽを向いた。

「ありがとう。料金はこの前と同じ口座に振り込んどく」

「いや、金はいらねぇよ。こいつに関しちゃ、サービスだ。その……足を引っ張っちまったからな。それでチャラにしてくれや」

「いいの、それで? 助かるよ。じゃ、遠慮なく」

「なあ。それよりも……」

彼女は少しためらってから言った。

「あんた、何をやらかそうとしてる?」

「何を? 俺が? いやいやいや」

曽我部は否定するように手を振った。

「報告書を作るために資料を集めてるだけだよ」

「嘘だろ。今更そんなの集める必要あるか? そんな大昔の資料を。しかも結構やばそうな奴を。あんた、何か企んでる」

「えー。そうかなあ。一体全体何かしら?」

冗談めかして曽我部は言った。

「なんとなくだけど、想像はつく。けどさ」

彼女は頭を振った。

「バカだぜ、あんた」

「よく言われるよ」

 

梅雨は今週末に明ける。ニュースはそのように断言していた。

その日は昼過ぎから小雨が降り始めたが、それは力なく路上を濡らすのが精一杯という風情だった。消え逝く梅雨の最後の悪あがき。長かった雨の季節が終わり、本格的な夏が訪れようとしていた。

夕刻手前、曽我部はベイクトンホテルに到着した。

薄暗いカクテルバーでヴェロニカ・ベインは彼を迎えた。

相変わらず彼女の肌は青白く、口紅を塗った唇が鮮やかに目立つ。

一番奥のボックス席に座ると、曽我部は事の次第を報告した。最も報告書はすでに提出済みなので、口頭でいくつか補足を付け加えただけだ。

報告している間、彼女はすこぶる上機嫌のようだった。

「ユーリ・カジンスキー・セトはリアルでもネットでも消滅した。私が頼んだ通りのことをやり遂げてくれたわね」

曽我部の報告が終わると、ヴェロニカは満足気にうなずいた。

「あー。厳密には違います。私がしたのは、ユーリ・カジンスキー・セトに盗まれた諸々の機密データの更なる流出を防いだことだけです」

曽我部は訂正した。

「データの回収に関しては、サンディエゴ社にお任せしっぱなしでした」

「些細なことよ。あなたはセトを打ち倒した。祝杯をあげなくてはね」

ヴェロニカは優雅な目付きで老バーテンダーを呼んだ。

「ブラッディ・マリーを。――あなた、今日は飲めるのでしょう?」

曽我部は頭に手を当てた。

「しまったな。車で来てしまいましたよ。すみません、またミルクセーキをお願いします」

「かしこまりました。フレンチスタイルですね」

バーテンダーが去ると、ヴェロニカが曽我部を咎めるように見た。

「申し訳ない。この国じゃ、日が沈む前の飲酒は悪徳なんです」

「アルコールを酌み交わせないのは残念だけど。まあいいわ」

ヴェロニカは曽我部に顔を寄せた。その口元には蠱惑的な笑みが浮かんでいる。

「私たちの間には、まだ終わっていないビジネスの話があったわね」

「そうですね。そのことについて、私もお話しようと思ってました」

曽我部は苦笑のようなものを顔に浮かべて言った。

「ずっと考えていたんですよ。――いや、実は入院中に夢を見ましてねぇ」

ヴェロニカは眉をひそめた。

「夢ですって」

「どういうわけだか、あなたと瀬戸が密談しているところの夢を見たんです。場所はわからないが、どこかの山小屋らしかった。えーと、瀬戸の遺体が見つかったのはコロラド州郊外の廃屋でしたっけ。たぶんそのイメージに引っ張られたのかな……」

正確には入院時に見た夢ではない。ゲーム内でドレインに弾丸を当てた時、電気信号のように一瞬にして曽我部の脳内に逆流してきた記憶のことだ。

ヴェロニカは眼を細めて艶然と笑った。 

「私と瀬戸はどんなことを話していたの?」

「内容まではわかりませんでした」

曽我部は答えた。

「ただ、この夢が私の目を開くきっかけになりました。おかげで、ビジネス上のいろいろな疑問ってやつが解消されましてねぇ」

「疑問?」

「黒い森についてですよ。ご報告した通り、今回の出来事には量子コンピュータががっつり関わってる。瀬戸悠里は黒い森の力を利用して鼠を大量生産していた」

バーテンダーがカクテルを持ってきた。曽我部は礼を言ってミルクセーキを受け取り、一口飲んだ。

「やっぱりうまいですねぇ。ここのカクテル」

「黒い森がどうかしたの?」

ヴェロニカは言った。

「瀬戸は一人で黒い森を使うことができたのだろうか、ということです。会社員が総務からノートパソコンを借り出すのとは訳が違う。量子コンピュータというのは大企業レベル、場合によっては国家レベルで取り扱うようなシロモノなんですよ。それを瀬戸悠里がたった一人で扱えたのだろうか? まずそれが気になりました」

曽我部は懐からパームパソコンを取り出し、折り畳みキーボードを開いた。挟んであった新聞のコピーを取り出してヴェロニカの前に出した。

「瀬戸には協力者がいたのではないか。そう思っていろいろ調べました。これを見てください。サンディエゴの地方紙のコピーです。ずいぶん古いものなので、写真なんか滲んでしまってますけどね」

と、曽我部は言った。

「この記事は二〇〇〇年以前のものです。お分かりになりますか。創立して間もないベンチャー企業が新型コンピュータの開発に力を注いでいるという内容です。そして、この企業名――」

曽我部は指でその箇所を示した。

「ALTIMIT社なんですよ」

曽我部の説明を、ヴェロニカは微笑んで聞いていた。

「――この後、この会社はALTIMIT OSで世界中にその存在を知られることになる。そのインパクトが強すぎたせいで、量子コンピュータ云々の話はどこかに飛んでしまったようですがね。見ていただきたいのは写真、この後ろの列です。メンバーが順に並んでいて、ほら、ここ。この女性。これを見てください」

そう言いながらも、曽我部は写真を見ていなかった。ヴェロニカの顔を見ていた。

「これ、ヴェロニカさんじゃありませんか? ずいぶんお若い」

ヴェロニカは写真を見なかった。曽我部の顔を見ていた。

「そうかしら? この写真ではよくわからないわね」

そこで初めてバージン・マリーのグラスを取り上げて飲んだ。

「そうですねぇ。確かにこの写真はわかりにくい。ただ、瀬戸には協力者がいた。これは間違いないことのように思われます。例えば、瀬戸は『ALGOS』のカメラの存在を知っていた。カメラを出しぬくために、その背後に大艦隊を浮かべてみせた。これはあらかじめシステムを知っていなくては到底できないことです」

「『ALGOS』が雇ったプログラマーの誰かが仕様を漏らしたのではなくて?」

「私も一時はそれを疑いました。しかし彼らの身元チェックは完璧でした。誰も瀬戸とは繋がっていない。――おかしいと思った点は他にもあります」

「何かしら?」

「ソフィア隊ウーラニアです。彼女の能力は鼠に特化しすぎていた。隙がない。まるで、彼女を用意した人間は、私が報告する前から鼠のことをよく知っていたみたいです」

「よくわからないわね。瀬戸の協力者が、なぜアンチウィルスのウーラニアを用意したというの?」

「瀬戸には協力者がいた。だが、そいつは瀬戸の完全な仲間ではなかった」

曽我部は続けた。

「その協力者は黒い森を与える一方、瀬戸を倒すためにソフィア隊を出動させた。要するにゲームマスター気取りで物事を進め、ゲームを盛り上げるための微調整を行った」

「興味深い考え方だわ」

「ヴェロニカさん。あなたが日本に来てからのスケジュールを調べさせて頂きました。いくつかのミーティングに参加される以外はほとんどこのホテルにこもりっぱなしです。まるで誰かに襲撃されるのを恐れていたかのように」

曽我部はもう笑ってはいなかった。

「このベイクトンホテルは明治創業でして、いわゆる手作りといいますか、人と人とのつながりを重要視するサービスを心がけているそうです。抽象的な言い方ですが、要するにコンピュータが一切置いていないんですよ。宿泊客の全ての記録がアナログで管理されてるんです。つまり、いわゆるネットからの攻撃は一切効かない安全地帯ということです。当然、デッドリー・フラッシュからも逃れられる」

「物は言いようね」

彼女はほほえんだが、それは微笑というより冷笑だった。

「私を呼びつけた時、あなたはもうここにいた。鼠の脅威を知っていたからです。瀬戸悠里のテロ行為をサポートしながらも、警戒を解かなかった」

ヴェロニカはまだ笑っていた。しかし彼女の目は異様な光をたたえ、今や電気を放射するように体から力を発散させていた。

「どうして私がそんな危険なことをしなくてはならないの?」

「それは」 

曽我部はかぶりを振った。

「わかりませんでした。残念ながら。ですが、推測することはできます」

「聞かせてもらうわ」

「ハロルド・ヒューイックと何らかの確執があったのではありませんか?」

曽我部がそう言うと、ヴェロニカの眉になんらかの表情らしきものが宿ったかに見えた。

「あなたの『The World』に対する態度は極めて冷淡だ。ずっと気になってました。経営者としては確かに正しいのかも知れない。だが、あなたは『The World』をどこか突き放して見ている――」

曽我部はそれ以上続けるのをやめた。

ヴェロニカが声を立てて笑い始めたのだ。

美しい体を白い蛇のようによじらせて、彼女はおかしそうに言った。

「いいわ。いいでしょう」

くくく、と白い歯を見せて笑った。

「リュージ。思った通り、あなたはとても素敵だわ。だから本当のことを教えてあげる」

ヴェロニカは薔薇をあしらったパイプを取り出すと、葉を揉んで火皿に詰め始めた。

「私はほんの少し、瀬戸悠里の企みに便乗したの。彼が望んだ事柄に必要なものを揃えて、その背中を後押ししただけ。あなたの言うように、黒い森の力を使えるように手伝い、『ALGOS』の仕様についても教えたわ」

いきなり開き直ったようだった。曽我部のほうが戸惑った。

「なぜそんなことを?」

「あなた、自分で言ったのよ。ゲームマスター気取りだと。とても解りやすい的確な表現だと思うわ」

いたずらっぽい調子とは裏腹に、ヴェロニカの声は墓石のように冷たかった。真実を、後悔するそぶりもなく話しはじめたことに気づき、曽我部はぞっとした。

「私は才能のある人間が好きなの。瀬戸悠里は思想が歪んで狂っていたけれど、まぎれもなく天才の一人だった。彼が何を生み出すのか。今すでにある既存のテクノロジーを駆使して何を生み出すのか。私はそれが見たかった」

ヴェロニカはブックマッチを片手で擦り、パイプを焦がさないようにして慎重に火を点けた。

「瀬戸の働きは満足のいくものだったわ。彼は見事に証明してみせたのよ。我々はすでに究極AIの力をも上回っている。我々はアウラを必要としていない、と。そして、瀬戸を高めるための障害としてあなたを選んだ。嬉しいことに、瀬戸以上にあなたは掘り出し物だったわ」

美しい唇がパイプの吸口をくわえ、満足そうに煙を吐き始めた。

「――さて、これでようやく最初のビジネスの話に戻るわけね」

「なんですって」

「私たちが住んでいるのは美しい世界なんかじゃないのよ、リュージ。経緯はどうでもいい。問題ではない。現状を見据えなさい」

ヴェロニカは曽我部の耳元でささやいた。

甘い煙が媚香のように曽我部の鼻をくすぐった。

「あなたのその知性は、テクノロジーの最前線で磨かれる資格がある。サンディエゴ社には、あなたがその実力を発揮できる環境がある。我々にはあなたを受け入れる用意があるわ」

試練はどこまでも続く。いつまでもつきまとう――

「お断りしすまよ。とんでもない話です」

曽我部は言った。

ヴェロニカの美しい眉が一瞬ぴくりと動いた。

「――ALTIMIT社では、新型……量子コンピュータの開発が非常に難航したようですね。実は、当時の開発資料を偶然手に入れましてね」

曽我部はそう言って、パームパソコンを起動させ画面を呼び出した。

今回用意した最後の資料。ウーラニアすなわちジュディ・ゴールドマンに『ALTIMIT社』に保管されたデータの窃盗を依頼したのだ。

「『……黒い森は、電子によって構築された監獄である。受刑者たちは特殊な技術によってリアルの肉体から切り離され、ネットスペースで刑に服する。人為的未帰還という、非常識ゆえに、それを管理する法すらない行為によって、囚人は、恩赦も仮釈放もない文字通りの無期懲役に服する。……囚人が増えれば増えるほど、彼らに与えられる苦痛が増せば増すほどに、機械は拡張され、性能は向上していく……そのためにも、人体実験による検証は必要不可欠であり……あらゆる手段で生体素子の流通経路を確保する必要がある……』」

曽我部はヴェロニカを見た。

「なかなか物騒なことが書いてある。生体素子というのは、本来であれば、天然の意識不明者のことです。『The World』の異常現象に巻き込まれた未帰還者のことです。NABが押収した去年の事件の資料にはその旨が書いてありました。しかし、ALTIMIT社が量子コンピュータの開発に取り組んでいた頃に未帰還者たちがいたとは考えられない。当時は『The World』そのものがなかったからです。では、どうしたか?」

喋りながら指を動かし、ページをスクロールさせた。

「ALTIMIT社は意識不明でもなんでもない、ごく健康な一般人を被験者にしたんです。たとえば無料ゲームのキャンペーンに当選したなどと言って、最新のネットゲームを体験させる振りをしてFMDを装着させ、当人も知らない間に生体素子化の操作を施した……」

望みのページが出た。

曽我部は剣を突きたてるようにして人差し指でとめると、ヴェロニカに画面を示した。

「ここから先は被験者のカルテをまとめたページが続きます。被験者に対する観察記録がここに書いてあります」。

声に出して読み上げた。

「『頭痛。激しい疼痛。灼熱痛。時には水ぶくれを伴う。コンピュータ起動時にはこれらの症状は発生せず。一日ないし二日の期間を置いて、就寝中に上記症状を引き起こす。バーチャルリアリティ体感中に受けた損傷が夢により追体験される……』

曽我部はそこで言葉を区切り、自分の呼吸を落ち着かせようと深く息を吸った。

「いいですか、これは……」

声が上ずりそうになったが、意思の力で抑えた。それでも叫ぶように言い放った。

「これは、私の妻と同じ症状です!」

 

ALTIMIT社はサンディエゴにあり、黒い森につながる量子コンピュータの開発を行なっていた。

カヤ・フレーベは、ヴァイス家を頼ってドイツに来るまではサンディエゴに住んでいた。

彼女は幼い頃に父親に連れられて、今となっては正体の定かでないネットゲームのキャンペーンに参加した。

そして、二人の体の奥底に業苦の烙印が刻まれた……

曽我部がカルテの話を持ちだしてから、ヴェロニカは無言だった。

吸いかけのパイプを机に置き、それをうつむき加減に眺めるようにしていた。光の加減で顔の上半分が陰になっていた。

取り繕うための方便を考えているように見えた。

そうではなかった。ヴェロニカが顔を上げると、光が動いて陰の中から彼女の両目が現れた。

その女帝然とした顔に何かが起きていた。目の奥のものが沸き立ち、人相が変わっていた。

「残念だわ」

美しく妖艶なキャリアウーマンの装いを透かして、極めて不快なものが顔を出していた。

 

あまりにも非人問的な要素が前面に浮き出ていた。

「もう気付いてしまったのね、少しずつ教えるつもりだったのに――」

ヴェロニカ・ベインは言った。

「そうすれば、あなたは苦しみを乗り越えるために偉大な研究を生み出せたはずなのに――」

話しあうべき相手ではなかった。それが明らかになった。

曽我部は立ち上がり、相手を見下ろした。

「それで、あなたはどうするつもり?」

と、ヴェロニカは言った。

「あなたが今日ここで話したことには一切の証拠がない。曖昧であやふやな推測を積み重ねた妄想に過ぎないわ」

「ええ。ですが、おかげ様で、私がすべきことが分かりましたよ」

曽我部は言った。すでに普段通りの声に戻っていた。

「私がこれからすべきことは、今話したことを証明してみせることです。証拠を探し出します。徹底的にね」

ヴェロニカはゆっくりと立ち上がった。蛇が首をもたげて上半身を起こすように。

曽我部は引かなかった。

二人はほとんど体を接触させて向かい合っていた。

「正気かしら? つまり、あなたはCC社を……ALTIMIT社を……敵に回すというのね」

「おそらくそういうことになるでしょう」

「そう。私はあなたのような人間は好きよ」

ヴェロニカはうなずいた。

「好きな人間には寛大なの。だから、このホテルからは出してあげる。お行きなさい」

出口のところでヴェロニカが言った。

「リュージ」

曽我部は足を止めたが、振り返らなかった。

ヴェロニカは言った。

「また会えるときを楽しみにしてるわ」

「あなたは鼠を絞め殺す蛇のように他人の痛みに無関心だ」

曽我部は背を向けたまま言った。。上着のポケットから飴を取り出し、包装紙を剥いで口にくわえた。

「その報いが来ますよ。いずれ、きっとね」

 

ベイクトンホテルを出ると、雨はすでに上がっていた。

曽我部は目を細めて空を見上げた。一点の雲もなく晴れ上がっていた。

その時、曽我部の頭上で鳥の影が飛んだように思った。

曽我部は振り返って目で追ったが、鳥の姿を見つけることはできなかった。

 

(完)

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