3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

41 耐える者

倒れていく、倒れていく、倒れていく――

倒れそうなったフリューゲルは、しかし、転倒する寸前に右足を出して踏みとどまった。倒れそうで倒れなかった。

腰を引き、上半身を前にたたんでいるが、両足でまだ立っている。

『試練』の決着を予感してフリューゲルを見守っていたドレインは、彼が転倒しなかったことに違和感を覚えた。

リアル側で曽我部隆二が昏倒してVRスキャナの接続が途切れて、PCボディだけが中途半端な姿勢でここに放置されたのか? 

いや、そうではない。まだプレイヤーはいる。存在を感じる。フリューゲルを介してまだ『The World』にとどまっている。では、なぜ昏倒しないのか?

フリューゲルの顔は見えない。

――と、やおらフリューゲルがその上半身を起こし始めた。

ゆっくりと、体が、頭が持ち上がっていく。

ドレインの足元で『遊撃』の指示(コマンド)を入れっぱなしにしていた鼠が一匹、フリューゲルのその動きに触発され、彼を排除すべき敵とみなして飛び掛った。

ぱん、と乾いた音がした。手ぬぐいの端を持ってはたくような音だ。

その後何事もなかったようにフリューゲルはその上半身を起こした。顔が見えた。

なんという表情なのか。笑っていた。泣いていた。怒っていた。嘲っていた。喜んでいた。呪っていた。悔やんでいた。その全てであり、そのどれでもなかった。

ドレインは鼠たちを連れてとっさに飛び下がった。

ドレインの直感が目の前の男が危険だと告げていた。

光を浴びせてから、ほんの数秒しかまだ経っていない。その数秒の間に、フリューゲルの身に何かが起きたのか。

それよりも――何をした?

フリューゲルに攻撃を仕掛けた鼠が消えている。

ドレインはすばやく現在保有している鼠たちの数を数えた。

総数は九十八匹。やはり一匹、いなくなっている。

「あー。まさか……といったところだねぇ」

フリューゲルがつぶやいた。

すでにいつも通りのとぼけたような表情に戻っている。

なぜそんな顔ができるのだ? なぜ立っていられる? ドレインは思った。『ヴォータンの槍』でフリューゲルの腹部を貫き、右手を切り落とした。強力な光も浴びせてやった。地面に倒れ臥して然るべき状態なのだ。

おかしい。何かがおかしい……

ドレインは三匹の鼠を操作するとフリューゲルに向かって飛び掛らせた。何が起きたのかを見極めようとしたのだ。

再び、ぱん、と乾いた音がした。手ぬぐいの端を持ってはたくような音。

ただしそれは一つではなかった。複数の音が同時に鳴ったのだ。

そして、鼠は消えていた。

ドレインは愕然とした。

どういうことだ? 何が起こった? 今の一瞬で三匹ともやられたというのか。

これはブリーラー・レッスルの能力ではない。少なくとも、今までのブリーラー・レッスルとは違う。

そもそもフリューゲルの手には銃が握られていない。呪銃がどこにもない。

「もうやめたほうがいい。無駄だからな」

フリューゲルは言った。

「なんというか……感覚で分かるよ。お前さんの鼠は、もう俺には勝てない」

フリューゲルの言葉にドレインは怒りを覚えた。

だが、フリューゲルはただ感じたことをそのまま口に出しただけだ。

ドレインが鼠をけしかけてくれたおかげで、彼は自分がたった今身につけた新しい形のブリーラー・レッスルをより深く理解することができた。

二メートルの間合いに入った対象にブリーラー・レッスルを当てたことにする能力。

届いたという認識が結果だけを引き起こす。ブリーラー・レッスルでぶち抜かれるという結果を。

呪銃を抜くことも、構えることも、引き金を引くことも、手に持つことさえも必要としない。

曽我部隆二の精神が生み出した新しい能力(ちから)。

いや、本来の能力(ちから)というべきか。

まさか……ドレインは戦慄していた。

光を浴びせたのは間違いだったのか。駄目押しをするつもりで、とんでもないことをしてしまったのではないか。

この男、曽我部隆二は……自分が医療機器VRスキャナの開発者であるくせに、シックザールPCの適性をもっているくせに……

今までVRスキャナでまともに治癒していなかったのか?

例えば自我の殻のようなものが通常の人間よりも強固なため、VRスキャナの治癒効果が不完全な状態だった?

それをドレインの放った光が破壊した。自我の殻が崩壊した瞬間、VRスキャナが本来の力を発揮して、曽我部の精神の傷を快復させた……

「いいだろう、フリューゲル……」

ドレインは次の瞬間には精神的動揺から早くも立ち直っていた。右足を強く踏み出すと、床に転がっていた『ヴォータンの槍』が梃子のように跳ね上がり、ドレインの手に収まった。

「これも『試練』だというのなら、私は何度でも乗り越えてみせる。君を倒す!」

たちまちのうちに新たな指示(コマンド)が下され、ドレインの有する残り九十五匹の鼠たちは一斉に牙をむき出しにし、身構えた。

「やれやれ。齢三十半ばにして能力覚醒ときたもんだ。まさかこの歳になって……」

フリューゲルはつぶやいた。

「能力と書いて『ちから』と読む羽目になるとはねぇ……」

ドレインの手がさっと振られたかと思うと、『ヴォータンの槍』が飛んできた。スナップを利かせて風車のように回転させていた。

この槍は刃の命中したものを破壊してデリートする。ほんの少しかすめるだけでも大ダメージを引き起こす。まともに刺さらなくていい。フリューゲルのPCボディのどこかに当たるだけでいい。そういう投擲だった。

フリューゲルはそれをかわそうともしなかった。棒立ちのままだった。

ばん、という乾いた音がして、構えることなく発射された弾丸が槍の穂先に命中した。

穂先を失った槍の柄だけがフリューゲルの足元に転がった。

フリューゲルは佇んでいた。一歩前に出た。

ドレインの端正な顔が悪鬼の形相となった。彼は次々に鼠を突進させた。

鼠が飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。

鼠が飛びかかった。命中した。粉みじんになって吹き飛んだ。

フリューゲルは佇んでいた。さらに一歩前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。フリューゲルは前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。フリューゲルは前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。フリューゲルは前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。フリューゲルは前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。フリューゲルは前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。フリューゲルは前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ。フリューゲルは前に出た。

鼠たちが飛びかかった。命中した。吹き飛んだ……

たちまちのうちに九十五匹の鼠たちは弾丸の前にむなしく消滅して果て、ドレインは大聖堂の隅に追い詰められていた。

何をどうしても、フリューゲルから二メートルの間合いに鼠を侵入させることはできなかった。

まるで弾丸の結界だ。打ち崩すすべはない。

いや、一つだけある。あったというべきか。黒い森のエネルギーだ。黒牢樹の片鱗ならば、二メートルの間合いなど無視してフリューゲルを倒せたはずだ。

しかし黒い森はもう使えない。金色のソフィア、ウーラニアを始末するときに使ってしまった。

「待て、フリューゲル……!」

ドレインは壁際に追い詰められ、叫んだ。

「『世界』に鼠は満ちるべきなのだ。『世界』は鼠で満たされるべきなのだ……! 私の生み出した鼠たちによって、人々は己のあやまちに気付くだろう。ネットという存在のおぞましさに気づき、ネットを捨て去るための努力を始めるだろう。そのときが訪れるまでは、私は何が何でもここにしがみつかなければならない。今、私が死ねば、私が産み出した鼠たちも消えてしまう。私がこれまでに積み重ねてきた行いがなかったことになる……!」

ドレインは話し続けた。必死さがその形相に滲みでていた。

「そうなってしまえば、ネットは今までと変わらず『下水道』として汚物を逆流させ続けるだろう。『世界』はゆっくりと腐っていく。その自覚もないままに全てが失われていく。だから私はまだ死ねないのだ。ネットこそ諸悪の根源ということを理解してくれ……!」

「あー。お前さん、なんて言ったっけ?」

フリューゲルはドレインの言葉をさえぎった。

「そうだ。『無作為によって生まれた必然は嘘偽りのない真実』……だっけ? 今まさにそうだよな。これが俺たちの試練なんだ。そうだろう?」

にやりと笑って見せた。

「最後まで楽しくやろうぜ」

「分からないのか……」

失望と絶望に染まり、ドレインの声が小さくなった。

「分からないのか」

ドレインは首を振った。

「分からないのか、フリューゲル!」

突然、すさまじい感情のこもった声で叫ぶと、爛々と光る目でフリューゲルをにらみつけた。それはもはや人間の面貌ではなかった。人外の顔だ。

そこにあるのは殺意だけ。

目の前の相手をたたきのめすのではない。傷つけるのではない。制止するのではない。

殺すのだ。

ドレインの体に異変が起き始めていた。

あまりの感情の昂ぶりが彼の体内の奥底で進行していた何かを促進させてしまったのか。

システム管理者を装ったボディがゆがみ、いびつな形で膨らみ始めた。全身から剛毛が生え始め、ドレインの体を覆っていった。整った鼻先が長く伸び、巨大な鼠のような相貌となった。

劇症的な変化だった。

フリューゲルは息を漏らした。目の前の現象を彼はすぐに理解した。

認知外依存症。

電脳世界の中で長く過ごし続けた人間の末路。

空間への自我の拡散消滅。その過程で、人ではない別の何かに『異化』してしまうのだ。

おそらく自分が空間いっぱいに広がるような錯覚や定期的な激しい頭痛発作といった前駆症状が今までにあったはずだ。

巨大な獣人と化したドレインがとてつもない敏捷さで飛び掛ってきた。

鍵爪の生えた節くれだった右手が伸びてきて、フリューゲルの喉を掻っ切るために彼から二メートル以内の空間に入ろうとした瞬間、弾丸がその甲に命中し、外へはじき出した。

ドレインは咆哮してさらに突進してきた。左腕を強引に突き出した。その途端、左手の先から肩口まで一気に命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した弾丸の勢いにはじかれたドレインは弾幕を突破しようと体勢を低くして飛びかかったが、その全身に弾丸が命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した弾丸の上からさらに命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。結界のような弾幕が命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。

「お前さんは、もうリアルで死んでいる」

フリューゲルは言った。

「ここにいるのは瀬戸悠里の『残滓』に過ぎない。せめて――」

ふたたびドレインが咆哮した。

両手を胸元に引き寄せ、牙を振り、フリューゲルめがけて口から突進した。満腔の力を込めた一撃。

「この『世界』に浄化してもらうといい」

弾丸がドレインの眉間に命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。命中した。

ついに一発の弾丸が異様な耐久度を誇るドレインの表面を破壊し、その頭部、リアルで言えば左頭頂骨にあたる個所に容赦ない正確さでめりこんだ。

その瞬間、弾丸を介してほんの一瞬だけフリューゲルとドレインの精神がつながった。フリューゲルはドレインの記憶を過去に向かってさかのぼっていった。

ゲーム内を徘徊し、廃屋のような山小屋で自ら命を絶ち、ヴェロニカ・ベインと相対し、CC社の雇われプログラマーとなり、出所し、独房に閉じ込められ、デッドリー・フラッシュの散布プログラムを実行し、竹馬大学を卒業し、菅井太一郎の講義を受け、そして――

いやはや、一体彼の人生はどのタイミングで現在のような方向へ突き進むことを決定されたのだろうか? 彼の父親が当時米軍で極秘に研究中だった無人ロボット兵器の単純な伝達ミスによって死亡したことを突きとめた時から? あるいはまた、母親の死の原因がコンピュータの医療投薬ミスにあることを探り出した時から?

ほんの少し、彼の人生の『歯車』が異なっていたなら。彼の『宿命』が違っていたなら。

ひょっとすると彼のその人並み外れた知性とたぐいまれな感受性を社会的に活かせる未来があったのかも知れない。

だが、そうはならなかった。フリューゲルがドレインのような道を歩まなかったように、ドレインもまたフリューゲルのような道を歩まなかった。

ドレインは下水道に潜む邪悪な怪物へと変貌した。

今、弾丸はドレインの頭部周辺のデータを念入りに破壊しながら貫通し、射出側の正反対にあたる後頭部に内側から命中した。

そこで弾丸がはじけた。呪銃ブリーラー・レッスルの真の停止能力が炸裂した。弾丸それ自体が微塵にした対象のデータ片と入り混じり絡み合い、侵食していきながらデータを溶かし気化させていく。

ドレインのPCボディは消えていく、消えていく、消えていく――

そして、静寂。完全消滅。

魔人ドレインは死んだ。

長い長いうんざりするほど長い本当に長い間世を憎み呪い恨み続けてきたドレインすなわちユーリ・カジンスキー・セトすなわち瀬戸悠里の狂信と憤怒と汚辱に満ちた人生はここにようやく終わりを告げたのだった。

フリューゲルは目を閉じた。

たった今繰り広げたばかりの死闘を思い返したのではなかった。彼の瞼の裏には海の景色があった。波と砂と空。鳥の声。潮のさざめき。

 

曽我部はVRスキャナを外し、電話ボックスの外によろめき出た。

雨を避けて歩道の脇に腰を下ろしていたデビッドが弾かれたように立ち上がった。

「えらい時間がかかったな。うまくいったんか?」

曽我部は親指を立てて笑顔を浮かべようとしたが、力が入らなかった。

そのまま前のめりに倒れかけるのを、デビッドがあわてて抱きとめた。

「曽我部はん? 大丈夫か?」

曽我部は答えようとしたが、喋ることができなかった。体が自分のものではないように感じ始めていた。

デビッドが何かを叫んでいたが、もう曽我部にはわからなかった。

意識が途絶え、暗闇に沈んでいった。

 

(続く)

next「42 エピローグ」へ

ページトップへ

一覧へ