3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

40 灰色の世界

叫んだ。

激痛。ただ激痛。

フリューゲルは身をよじって灼熱の痛みから逃れようとした。前のめりになると、槍の刃先がゆっくりと抜けていき、まず右腕が、ついで下腹部が自由となった。彼の背後で槍が抜け落ちて床に落ちる音が聞こえた。

振り向いたが、足がもつれて石畳の上に倒れこんだ。

痛みが治まらない。それどころかますますひどくなっていく。

何が起きたのか。何をされたのか。刺された? 誰に?

「これが――」

曽我部の見ている目の前で、長椅子の背に裏側から手がかけられた。

ドレインがゆっくりと身を起こし、立ち上がった。

「これが『試練』に選ばれるということだ。これが私の求めていたものだ」

フリューゲルは立ち上がろうとしたが、再び激痛に襲われて動けなくなった。

「君は私を髪の毛越しに撃った。それで私に弾丸を当てたと思い込んだ。しかし……」

ドレインはゆするように頭を振った。髪の毛がなびき、そこから紫色の何かがぼとぼとと落ちてきた。それは鼠だった。たちまちのうちに何十匹もの鼠の群れがドレインを中心に陣を組んだ。

フリューゲルは歯を食いしばった。

ドレインのPCボディを覆っていたデータの凍結を示す氷が、鼠の擬態によって作られたダミーだったことに気づいたのだ。

「君が放った乾坤一擲の弾丸は、私のこめかみのところにいた鼠を一匹しとめただけだ」

ドレインはフリューゲルを見下ろした。

「だが、今の一撃は素晴らしい。実に素晴らしい。君がどのようにして『The World』にログインしてきたのか。私の居場所をどうやって突き止めたのか。私の隙を作るために何をしたか。君の苦労が偲ばれる……。君は本気で私を倒そうとし、全力を尽くした。私にはそれがわかる……」

ふと気づくと、ブリーラー・レッスルが床に落ちていた。フリューゲルの右手が銃把を握り締めたまま。『ヴォータンの槍』に破壊され、前腕のところで切れ落ちてしまったのだ。

「その君を打ち砕くことで、私は私の『試練』の正しさを証明することができた……」

ドレインはもはやフリューゲルのほうを見てもいなかった。自分の喋る言葉に熱中していた。

「全ては偶然なのだ。私が『碧衣の騎士団』から『ヴォータンの槍』を奪ったのはそれが目的だったからではない。単に彼らが持っていたから手にしただけだ。君の弾丸を防ぐことができたのは、ただここに鼠を待機させていただけのことだ。……そして、それこそが最も重要な事柄なのだ。無作為によって生まれた必然は嘘偽りのない真実だ。君の全精力を込めた策略を、私の真実が上回った。今、まさに、私は『試練』に選ばれ、そして乗り越えた……!」

フリューゲルは歯をかみしめてその場に立ち上がった。右腕が途中から欠落しているためかバランスを崩して倒れそうになったが持ちこたえた。

「やれやれだ。瀬戸悠里、お前さんの欠点はな」

フリューゲルはざらつく声で言った。

「自分語りの台詞が長いってことだ。そういう奴はみんなに嫌われる」

フリューゲルの左手には、自分の右手から外したブリーラー・レッスルが握られている。

それをドレインに突きつけた。

ドレインはフリューゲルを見た。艶めいた目であり、どこか悲しみを帯びた瞳だった。

「強がりはやめたまえ。自分ではまだ気づいていないのかも知れないが、こちらからは君のPCボディの惨状がよくわかるよ。致命傷だ。シックザールPCであるがゆえにかろうじて即死を免れただけだ……。意識不明に陥るどころではない。じきに君は死ぬ」

ドレインは淡々とした口調で言った。

「君は私にとって最高の『試練だった』。だが、もう終わってしまったのだ。君がどんなにあがいても、どんなにタフな台詞を吐いたとしても、もはや意味がない。せめて安らかに最期の時を迎えたまえ」

ドレインは二メートル以内、目の前だ。引き金を引けば必ず当たる。

だが不意にフリューゲルの四肢から力が抜け、銃を取り落としてしまった。また倒れそうになり、彼は傍らの長椅子に手をついて踏ん張った。

「……何が君をそうまでさせる。誇りか? 意地か?」

ドレインは穏やかに話しかけた。

「それとも、ひょっとして……君の娘のためか? ならば約束しよう。君の周辺の者たちを鼠のターゲットから外す、と。君に連なる人間を鼠が襲うことは決してないと誓う。それが君への感謝と敬意の証になるならば」

ドレインの足元から鼠が飛び掛ってきた。よけようとしたが間に合わなかった。

フリューゲルの顔のすぐ前で閃光が炸裂した。その途端、鼻先にむっとするようなすえた臭いが押し寄せてくるのを感じた。

「改良型の特殊な光だ。濃度は通常の八倍……玉ねぎの腐ったような臭いがしたかね? それは大脳新皮質に決定的なダメージが刻まれた証拠だ。しかし飛び降り自殺をさせるつもりはない。即座に昏倒するだけだ。せめて安らかに……」

ドレインの声がフリューゲルの耳朶を打った。

「力を抜いて休みたまえ。誰が君を責められよう。君はよくやった。もう苦しみはない……」

「お休み」

と、鼠が言った。

「お休み」

と、鼠が言った。

「お休み」

と、鼠が言った。

「お休み」

と、鼠が言った。

「お休み」

と、鼠が言った。

「お休み」

と、鼠が言った。

「お休み」

と、鼠たちが声をそろえて言った。

「お休み」

と、ドレインが言った。

ついにフリューゲルの足から力が抜けた。足そのものが消失してしまったようだった。

死ぬのだろうか、と思った。

恐怖は感じなかった。なぜか迫りくる死は青いという認識があった。その色彩にはどこか見覚えがある。遠い昔に見た記憶。いつ見たのだろう。獰猛な捕食者のような青。

だがもう何も考えられない。視界が暗く狭くなり、前のめりに倒れていく。

倒れていく、倒れていく、倒れていく――

 

私は世界で初めて『The World』をプレイしたのよ。十年以上も前にね。カヤはちょっと得意そうに言った。

休日の昼下がり。

カヤの隣のソファでは二歳のサシャがすうすうと寝息を立てていた。

『Fragment』のこと? 曽我部は尋ねた。

当時の曽我部はネットゲームにそれほど精通してはいなかったが、『The World』が世を席巻するネットゲームで、その体験版が『Fragment』であることぐらいは知っていた。

いいえ、違うわ。そんな名前じゃなかったと思う。カヤは首を振った。それってちょっと前のやつでしょ。そうじゃないの。私がまだほんの子供の頃だったもの。詳しいことはよく覚えていないけど、父さんが何かの抽選に応募して、それが当たったのね。一日だけの体験ツアーに参加できたの。すごく面白かったわ。リアリティがあって、刺激的で。

それで、ずっと後になって、『The World』を見たときにはすごく驚いたの。私と父が昔に遊んだゲームそのままだったから。

君がゲーム好きだったとは知らなかったな。曽我部は言った。

じゃあ、これから何か買いに行く?

カヤは首を振った。ううん。やめておくわ。

どうして? 君みたいに、サシャにもゲームの思い出を作ってあげようじゃないの。

曽我部はカヤの肩に手を回し、サシャの寝顔を覗き込むようにした。

そうしながら曽我部は思った。これが俺の大切なものだ。

手を伸ばして届く範囲の幸せ。守るべき素敵な距離。

あなたって詩人なのね、今まで知らなかったけど。カヤはかすかに笑って言った。

いつの間にか声に出していたらしいと気づいたが、曽我部は鹿爪らしい顔で取り繕った。

そうとも。俺は詩的素養に満ち満ちた男なんだよ。超ポエジー。

そして立ち上がった。

さあ、行こう。今日は晴れてる。絶好のゲーム買い日和だ。

だが、カヤは動かなかった。座ったままサシャを抱き寄せた。

でも……彼女は口ごもった。

どうした?

曽我部はカヤの前に立ち、中腰で顔を寄せた。

カヤはその耳元に口を近づけて言った。

でも、死んでいるの。

ほとんどささやくような声だった。

私たちはもう死んでいるのよ。

 

ここでは常に二〇一四年、そして二〇一六年。

二つの時が交差し、離れ、近づき、すれちがい、反響し――

常に、すでに、いつも、いつまでも、何度でも、繰り返し――

すり切れたレコードが同じフレーズを繰り返すように。

二〇一四年、曽我部は二十三歳。カヤは二十二歳であり、サシャは三歳――

二〇一六年、曽我部は二十五歳。カヤは二十四歳になるはずであり、サシャは五歳になるはずだった――

この時期より曽我部の過去は分断される。引きちぎれ、引き裂かれ、もはや遠くに、すでに彼方へ。手の届かないところへと。

ここでは常に二〇一四年、そして二〇一六年。

すり切れたレコードが同じフレーズを繰り返すように。

ここでは常に二〇一四年、そして二〇一六年。

 

その時、カヤは車を運転していて、助手席にはサシャが乗り、カヤは運転していて、カヤは運転していて、カヤは運転していて、カヤは運転していて、カヤは運転していて、カヤは運転していて、カヤは運転していて、カヤは運転していて、カヤは運転していて、今、ハンドルを大きく左に切り、切って、車体は大きく跳ね、前傾し、斜めになって落ちていく、落ちていく、落ちていく、落ちていく、落ちていく、沈黙の中へ、沈み始める、沈む、沈んでいく、湖の中へ沈んでいく、手の届かない場所、声の届かない場所へ、二度と戻らぬ場所へ、灰色の中へ、彼女たちは落ちていく――

 

サシャとカヤは車から運び出され、担架の上に並んで寝かされている。

曽我部は妻と娘のもとに行こうとして、地面はうねり始め、二人は彼から離れたところにいて、彼はよろめき、そうするうちに二人はどんどん遠ざかっていき、それでも彼は駆け寄ろうとし、地面はうねり続け、距離が離れすぎているので、もはや、今では、すでに、彼女たちは遥か彼方にいて、彼の両足が彼の体を前に押し出そうとするものの、その動きはあまりにもゆっくり過ぎて、どんなに近づいても、地面はうねり続け、彼女たちは遠く、遠く、遠く、遠く離れていき、お互い手を伸ばせば届くところにいるはずの彼女たちの元へ決してたどりつけず、なぜなら二人はもう手を伸ばせないから、今、地面が歪み、割れ、彼女たちは暗黒に飲み込まれ、曽我部をそこに残したまま、またしても落ちていく、落ちていく、落ちていく、際限なく落ちていく――

 

回りきったレコードから針が落ちるように全てが終わった。ミンネザンクは途絶え、そこから先には進まない。繰り返されるだけだ。もはや、常に、すでに、永遠に――

二つの時が交差し、離れ、近づき、すれちがい、反響し――

常に、すでに、いつも、いつまでも、何度でも、繰り返し――

 

カヤは車に乗って湖に落ちたのだ。助手席に娘を乗せて。

彼女たちは行ってしまった。去ってしまった。消えてしまった。

曽我部は何度も自問自答した。

俺は何か間違ったことをしたのだろうか。あるいは正しいことをしなかったのか。

わからない。何もわからない。

カヤの症状は小康状態を保っていたはずだった。

曽我部との結婚は彼女の病気に安定をもたらしていたはずだった。

ただ、カヤは自分の病気がサシャに遺伝する可能性をひどく恐れていた。娘には苦痛を与えたくないと願っていたのだ。どんなにそれはありえないと説明しても無駄だった。

着手している論文が完成し認められれば曽我部には昇進の可能性があった。そうすればカヤの主治医のチームに配属されていたかもしれない。あとほんの少し時間に猶予があれば、曽我部自身がカヤの治療に加わることができたかもしれない。

あと少しでプロポーズの時にした約束を果たせたのだ。

 

リュージ。君は君自身の体に気を遣わなくてはいけないよ。

時折ヴァイス氏が夫人と一緒に曽我部のもとを訪れてそのようなことを言った。

ありがとうございます。でも、大丈夫です。曽我部は答えた。

カヤは自分にとってあなたがどんなに大切か話してたわ。あなたに出会えてあの子は幸せだった。そう思わなくては。ヴァイス夫人が言った。

幸せだったのは僕の方ですよ。曽我部は答えた。

 

カヤとサシャが死んだ後に昇進があった。曽我部は准教授となった。

今となっては意味のない役職。何の感慨もなくその辞令を受け取った。

ある時、その日最後の講義を終えて歩いていると、誰かが背後から曽我部の名前を呼んだ。

曽我部先生。

ドイツ語ではなかった。懐かしき日本語。

振り向くと講義室から後を追ってきたらしい男子生徒が立っていた。

 

 

まだ若い。若過ぎる。いくら日本人が歳の割に若く見えるとはいえ目の前の学生は少年というのがふさわしいほど幼く見える。

君は、確か……

能村要といいます。日本からの留学生で、先生の講義を受講しています。

飛び級か。いくつ?

要と名乗った生徒はかすかに顔を赤らめた。

十六歳です。彼は答えた。先生はリアルデジタライズの研究をされていると聞きました。私はリアルデジタライズについて知りたくて、先生の講義を選択したんです。

どうしてドイツに来たんだ? 曽我部は言った。

論本を書いた人間は日本にいる。そこに行けばよかったのに。

ではご存じないのですね。

要は言った。

天城博士は失踪してしまったんです。今、リアルデジタライズを研究されているのは曽我部先生だけなんです。

 

小雨の降りしきる中、曽我部はカヤとサシャの墓の前にいた。涙が出ない。彼女たちがいなくなってから一滴も出ない。出る前から枯れてしまったようだった。

なぜ人生はこうも残酷になれるのか? 世界はその邪悪な本性を垣間見せる。

カヤが抱えた苦しみは彼女自身にしか分からない。彼女の中でとうとう何かが擦り切れたのか。

 

サシャをはじめて抱いたとき、曽我部はそのあまりの無力さと無防備さに驚き呆れた。この世のものとは思えないほど小さくて華奢だった。顔をのぞき込むと、母親ゆずりの大きな目で見返してきた。

守ってやらなければ、そう思ったことを曽我部は覚えている。この子を俺が守らなくては……残酷で気まぐれな世の中から、俺がこの子を守らなくては……

 

奥様はご自分の意思で湖に落ちた。そう推察するに値する証拠があります。自らの肩書きを保険の調査員と告げた男はそう言った。

ブレーキを踏んだ痕跡がなかったよ。彼と一緒に来た男が言った。カヤの事故を担当した警部だ。

普通、事故ならブレーキを踏んだ痕が残るはずだ。彼女には止まる意思がなかった。そのように思われるね。

保険の調査員が警部のあとを引き取って言った。

それにもう一点、後部座席に取り付けたチャイルドシートを使わず、お子さんを助手席に乗せています。これも間接証拠と言えるでしょう。

もちろん百パーセントの確率でそうだというわけではありません。何か別のことが原因で事故が起きたかも知れない。ブレーキを踏むことができなかっただけなのかもしれない。ただひどく急いでいただけなのかもしれない。その可能性はあります。

ただその場合は、それを証明するために裁判が必要になります。そこでご相談なのですが、こちらの書類にサインをしていただけませんでしょうか。

曽我部は差し出された紙を見た。

奥様がご自分の意思で湖に落ちたことをあなたが認めたという書類です。非公式のものですから、公開されることはありません。サインしていただければ、規定の20パーセント増しの保険金が支払われます。我々としては裁判にかかる費用と時間を省略したいのです。

曽我部はうなずいた。書類を手に取ると、それを二つに引き裂いて捨てた。

そして握り拳を作り、調査員の顔に叩きつけた。

 

マフレト・ナイマン教授は教え子の曽我部がリアルデジタライズの研究に傾倒することを喜ばなかった。

あれは科学ではない。オカルトだ。ある時、教授ははっきりと言った。

オカルティストがオカルトをいじるのはいい。だが、医者がオカルトを弄ぶのは感心しない。

私の妻はずっと聖痕現象(スティグマ)に悩まされていましたよ。曽我部は言った。

オカルトだろうが何だろうが、それしかないのなら、やるだけです。

教授はかぶりを振った。

しかし……君は学院内に敵を作りすぎているよ。

でしょうね、曽我部は答えた。

 

ただ曽我部の傍らで、ウィスキーの瓶だけが、豊かで、純粋で、愛想よく輝いていた。

天城丈太郎の残した論文を繰り返し読み、酒を飲みながら彼は日々思った。

俺は俺の世界から外に出られない。カヤ、君の世界に行くことができない。

君が何を感じ何を考えていたのか。

君が不断に苛まされ続けてきた苦痛を。受け入れざるを得なかった理不尽を。

あの日の朝ロストクで君が目にし俺に伝えようとした君の世界の美しさを、俺はもう永遠に知ることができない。

 

ここでは常に二〇一四年、そして二〇一六年。

二つの時が交差し、離れ、近づき、すれちがい、反響し――

常に、すでに、いつも、いつまでも、何度でも、繰り返し――

すり切れたレコードの上を回る針が同じフレーズを繰り返すように。

二〇一四年、曽我部は二十三歳。カヤは二十二歳であり、サシャは三歳――

二〇一六年、曽我部は二十五歳。カヤは二十四歳になるはずであり、サシャは五歳になるはずだった――

 

二〇一六年、四月。風のないよく晴れた日だった。突然、最悪のニュースがドイツを騒がせた。

ミュンヘン発ハンブルグ行き電車の事故。

スピードの出しすぎに加えて、経年劣化による脱輪が発生したのだ。カーブを曲がりきれず、一号車が道路橋の柱に放りだされ、その衝撃で橋桁が落下し、これに行く手を阻まれた後続車両が次々と激突する大惨事となった。

のちに戦後ドイツ史上最悪の鉄道事故と呼ばれるそれは、最終的には百八十六名の死者を出した。

一号車に乗った生存者は一人の少女だけだった。気絶していたが、奇跡的に無傷だった。飼い犬が吼えて救助隊に場所を知らせた。助けられて二時間後、犬も死んだ。

 

親族会議という体裁だったが会ったこともないような人間ばかりだった。リーリエにとって頼りとなる親族は一人もいなかった。

全員の目がぎらぎらと輝いていた。餌場をあさるハイエナの目つきだ。

彼らの興味は、ヴァイス家の遺産がどのように扱われるのか、その一点だけだった。

朝から参加していた曽我部は濁りきった場の空気に耐えられず、とうとう口に出して言った。

リーリエはどうなるんです。

君は誰かね? 進行を務めていた年寄りの弁護士が言った。しゃしゃり出てきた東洋人の若造を不審げに見ていた。

私は彼女の。言葉に詰まった。親戚です。

彼女は今、エシェデの施設に預けられている。しかるべきが時が来れば出る。他に何か?

いえ、特に。曽我部は黙った。

その日、リーリエに関する発言はそれが全てだった。

曽我部はリーリエを引き取った。

 

主任教授は言った。

我が校にふさわしくない講義ばかり続けているという話だが。

リアルデジタライズのことでしたら、その通りです。曽我部は答えた。

保険会社から訴えられたそうだね。調査員に対する暴行で。警官の前で殴ったとか。

はい。曽我部は言った。

親戚のトラブルで、他にもいくつか訴訟を抱えていると聞いた。

はい。曽我部は言った。

君の勤務態度を疑問視する声が上がっているんだ。去年帰国されたナイマン教授はそのあたりをうまくごまかしていたようだが、私は違う。なぜそんなに揉め事を?

曽我部は話した。

安っぽい正義感だな。主任教授は言った。

あなたのカツラよりはましですよ。曽我部は言った。

君の今の言葉には問題があるぞ。顔色が変わっていた。

ええ。曽我部は言った。少しだけ。

 

背後から声をかけられた。

曽我部先生。

ドイツ語ではなかった。懐かしき日本語。

振り向くと講義室から後を追ってきたらしい男子生徒が立っていた。

まだ若い。若過ぎる。いくら日本人が歳の割に若く見えるとはいえ目の前の学生は少年というのがふさわしいほど幼く見える。

君は、確か……

能村要です。日本からの留学生で、先生の講義を受講しています。ちなみにこのやりとりは二回目です。

彼はてきぱきと答え、手紙を差し出した。

曽我部は受け取った。

これは?

主任教授の机に置いてあるのを見つけました。曽我部先生宛てだったので、こっそり持ってきたんです。

あのさ、先生ってのはやめてくれる? 曽我部は言った。

さっきの俺の挨拶を聞いただろう。今日一杯でここを辞めるんだ。

でも、他の大学に移るだけですよね?

さあねぇ。今はどこの大学もなかなか不景気だからねぇ。

それでは、先生はどうされるんです。

いい機会だし、プロ野球選手をめざそうかと思ってね。年齢的にはまだいける。

ご冗談を。要は首を振ると、曽我部の手元の手紙を指差した。

では、その手紙を読むべきだと思います。

なぜ?

差出人を見てください。

曽我部は手紙をひっくり返してみた。サイバーコネクト・ジャパンとあった。

これが?

これが、ですって? 要は呆れたように言った。

ジャパン社は天城博士が勤務していたゲーム会社ですよ。おそらくリアルデジタライズの研究について後任を探しているんだと思います。

 

ここでは常に二〇一四年、そして二〇一六年。

二つの時が交差し、離れ、近づき、すれちがい、反響し――

常に、すでに、いつも、いつまでも、何度でも、繰り返し――

すり切れたレコードの上を回る針が同じフレーズを繰り返すように。

二〇一四年、曽我部は二十三歳。カヤは二十二歳であり、サシャは三歳――

二〇一六年、曽我部は二十五歳。カヤは二十四歳になるはずであり、サシャは五歳になるはずだった――

 

回りきったレコードから針が落ちるように全てが終わった。ミンネザンクは途絶え、そこから先には進まない。繰り返されるだけだ。もはや、常に、すでに、永遠に――

二つの時が交差し、離れ、近づき、すれちがい、反響し――

常に、すでに、いつも、いつまでも、何度でも、繰り返し――

すり切れたレコードの上を回る針が同じフレーズを繰り返すように。

 

しかし、もし針が進んだなら、レコードは今までたどり着けなかった新たなフレーズを歌い出すだろう。

ここでは二〇二〇年。曽我部は二十九歳。カヤは二十八歳であり、サシャは九歳――

 

ようやく休暇が取れたので、かねてからの計画通り、バルト海方面へ遠出した。テントは新しく用意した。昔買った三人用のものでは狭すぎるからだ。八人用の巨大テントを買い直した。

欧州自動車道路を北に向かって走った。十年前に通ったのと同じ道だ。

三分の一の行程を過ぎた頃、サシャとリーリエが何かのはずみで喧嘩を始めた。

サシャがリーリエの髪を引っ張り、リーリエが泣き出した。その泣き声を聞いてなぜかサシャも泣き出した。

「二人とも、やめなさい」

助手席のカヤが振り向いて注意した。

活発なのはいいがどちらも少々元気すぎる。

その時、グリットが二人の間にその巨体を割り込ませた。

「ほら、グリちゃんも言ってるでしょう。仲良くしなさいって」

グリットはもう十歳を超えている。人間で言えば初老の域に差し掛かっているはずだが、曽我部が散歩していた頃とほとんど変わらず元気だった。

ロストクに到着する頃にはサシャとリーリエはすでに仲直りしており、一緒に浜辺をものめずらしそうに散策し始めた。

曽我部はテントを設営した後で義兄に電話した。

「今、着いたところです」

「そうか。リーリエの奴、おとなしくしているかね?」

曽我部の横をリーリエとサシャが駆けていった。

「ええ。静かなもんです。義姉さんの方はどうです」

「落ち着いてるよ。予定日は明日なんだがね。そうは見えない」

「でしたら、義兄さんもゆっくりお休みになったらいいでしょう。しばらく寝ていないのでは?」

「そうだな。少し休むとするかな。君たちには迷惑をかけてすまない」

リーリエたちのあとをグリットがゆっくりした足取りでついていく。

「とぉーんでもない。もともと旅行するつもりだったんです。お気になさらずに。優秀なベビー・シッターをつけてもらってますからね。問題ありませんよ」

電話を切ったあと、売店に寄った。十年前にあった売店と同じだ。曽我部はそこでサンドイッチとシリアルとダイエットコーラを買い、テントに戻った。

しばらくして腹を空かせた小娘どもが帰ってきたので、カヤが彼女たちに手伝わせて料理を作った。

彼女たちの後姿を眺めながら曽我部はコーラを飲んだ。

夕食が終わり、やがて燃えるような赤い夕日がバルト海の彼方に落ちていくのを見届けると、曽我部たちはテントの中に潜り込んだ。

翌朝、目が覚めると、周囲は夜明け前の闇に包まれていた。ほんの一瞬、自分がどこにいるのかわからなかったが、カヤとサシャとリーリエの寝息を聞いてすぐに思い出した。

曽我部は彼女たちを起こさないように気をつけてテントの外に這い出た。入り口の外で寝ていたグリットが目を開けたが、出てきたのが曽我部だと知って興味なさそうにまた目を閉じた。

コーラを右手に持って小高い砂浜を登っていき、そこに座った。波の音を聞き、潮の匂いを嗅ぎながら二口ほど瓶をあおった。

かすかに空が白み始めていた。

その時、どこかで鳥が鳴いた。曽我部は立ち上がり、鳴き声の主の姿を探したが見つけることはできなかった。

テントからカヤが出てきて曽我部の隣にやってきた。

「リュージ?」

「やあ、おはよう」

「おはよう」

カヤは曽我部の顔を覗き込んだ。

「あなたって、テントで寝るといつも外に出るのね。前もそうじゃなかった?」

「幸せで窒息しそうになるからね。イヒヒ」

曽我部は言った。

「コーラ飲む?」

カヤが首を振ってその誘いを断った。

二人で並んで座った。

「この前来た時、鳥が鳴いた」

しばらくして曽我部はぽつり言った。

「それで、君はコマドリの話をした。渡り鳥とか、はぐれ鳥とか、そういう話を」

「よく覚えてるわね」

カヤは笑った。

「ずっと後になって、旅行のことを思い出すたびに、どうして君がそんな話をしたんだろうって考えたよ」

「真面目な人」

「そうかな。不真面目な奴とはよく言われるけどね」

「いいえ。あなたはとても真面目だわ。自分に嘘をつかないという点で」

カヤは首を振った。

「あなたはいつも、これからも、そうやって最後まで関わろうとする」

海が遠くでさざめいている。

「だって、それはあなたにしかできないことだから」

それからしばらくの間、二人は黙って波の音に耳を傾けていた。

「それで」

曽我部は口を開いた。

「コマドリの意味は教えてくれないのか?」

カヤはにっこり笑った。

「もう忘れちゃったわ」

ふと気づくと周囲は急速に明るくなり始めていた。夜から朝の境目を乗り越えたのだ。

曽我部は立ち上がると、腰の砂を払った。

「リュージ」

カヤは呼び止めた。

曽我部は振り返った。

彼女は立ちあがり、曽我部を見つめていた。

淡い朝の光の中で彼女の姿は次第に溶け込んでいくようだった。

「ありがとう」

と、カヤは言った。

曽我部はうつむいた。しばらく黙ったまま、鼻の頭をかき、顔を上げた。

「あー。なんだろうな。こういう夢を見たら、これを言おうって。言うべき事はずっと決めてたはずなのに。何年も前からずっと決めていたのに」

小さく笑った。

「何を言うつもりだったのか忘れちまったよ」

カヤの顔には哀愁味を帯びた穏やかな表情が浮かんでいる。

それと認め難いほどかすかな微笑。物憂げで、耐えているような、優しい笑顔。

「リュージ」

カヤは言った。

「さよなら」

「ああ。さよなら」

曽我部は言った。

 

(続く)

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