3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

39 奇襲

虚空。

何も存在しない空間の中でドレインはただ一人中空に佇み下界を見下ろしている。『The World』は今や彼一人だけのものだ。

しかしその表情に喜びはなく、代わりに全身を絶え間なく襲う容赦のない痛みに顔をしかめた。

ソフィア隊ウーラニアは当初想定していたよりも手ごわい難敵だった。

あの女を倒すために、黒い森のエネルギーを使わざるを得なかった。手間隙かけて作り上げた大艦隊と鼠の群れを自らの手で吹き飛ばす羽目になってしまった。

黒い森の恩恵に浴せなくなった彼にはもはや鼠たちの大群を作り出すことができない。今、産み出せるのはせいぜい百匹程度。それがシックザールPC『ドレイン』の本来の限界なのだ。

だが問題は何もない、と彼は自分に言い聞かせた。

時間はかかるが、もう一度最初から黒い森のエネルギーを蓄積していけばいい。

それに、すでに充分の数の鼠を『脱獄(エクソダス)』させている。

損失は引き合う。補填できる。納得できる――

そこまで考えて、ドレインはふと気づいたように、自分の胸元にぶら下がっているそれに目を向けた。赤錆のような色の腕。肘の手前ですっぱり切断されたウーラニアの残骸。

最前までは金色に輝いていたそれは、今では光を失い、鈍い錆色に変化していた。

ドレインはそれをもぎ取って捨てた。

手首はドレインから離れて認知外空間を漂っていく。

その方を見向きもせずに、ドレインは転送エフェクトを残して姿を消した。

そしてその光輪が消え失せると、あとには、ウーラニアの左手首と、死そのもののような凄まじい沈黙が残った。

 

『The World』から強制切断された場合、普通のPCにとってそれはただ切断されたというだけのことにすぎない。

だがシックザールPCを操作する者にとっては事情が異なる。それは不正規な手順で行われた終了手順であり、治療器具であるVRスキャナを正しく用いなかった患者はその代償をすぐさま支払うことになる。

事務所のソファに寝そべり、VRスキャナを装着してログインしていた曽我部は、全身に落雷のような衝撃を受けてすみやかに意識が遠ざかっていった。

ふと気づくと冷たいものが頬に押しつけられていた。それはリノウム張りの床だった。

曽我部は万歳のような姿勢でソファの横にうつぶせの姿勢で転げ落ちていたのだった。

デビッドが曽我部の肩に手を当てて揺さぶっていた。

「曽我部はん、大丈夫か?」

と、彼は言った。

「大変なことになってもうた。ウーラニアが負けた。それに、鼠が……曽我部はんも見たやろ、鼠の群れが一斉に……」

曽我部は立ち上がると、なおも話しかけようとするデビッドを手で制した。足下がふらついて腰が落ちそうになったが持ちこたえた。急がなくては。間に合うだろうか。

一目散に事務所の奥にある流しへと走った。

間に合った。身を乗り出して嘔吐した。

苦い胃液を吐き出しながら前のめりにつんのめっていくような錯覚を覚えた。揺り戻しが起きてしまった。ここ数日、ほぼ収まっていたはずの諸症状が今の強制切断のおかげで一気にぶり返したのだ。中途半端に治癒しかけた状態で負荷をかけてしまったせいだ。脂汗が額に滲んできた。

しばらく待って落ち着いてきたので、蛇口をひねって水を両手で受け、喉の奥を洗うようにして飲んだ。顔を洗い、タオルで拭いた。

ソファに戻ると、デビッドがパソコンのキーボードを叩きながら冷静に確認すべき事柄をチェックしていた。彼はゴーグルをつけ直して再びログインしようと試みていた。

デビッドは顔を上げて言った。

「――あかんな。『The World』に入られへんで」

「なんですって」

二人で試したが結果は同じだった。

公式ページによれば、CC社でも原因を究明している最中だが、復旧のめどは立っていないとのことだった。『The World』側でなく、『The World』に繋がるネット回線側に何か異常があるらしい。

曽我部とデビッドは顔を見合わせた。

絶望的な事態だった。

二人は切断される直前、『ALGOS』のモニターで鼠たちが次々に姿を消し、タウンからさらにどこかへ送り込まれていく光景を目撃していた。

ネットテロリスト瀬戸悠里の企みが成功してしまったのだ。

一体何匹の鼠が外に流出したのか?

死の光を浴びてしまった人間の数はどれほどの規模になるだろう?

あと半日のうちに――わずか数時間のうちに最初の犠牲者がどこか高いところから飛び降りるだろう。その数は連鎖するように広がり増えていく。もはや止められない。

「これも、おそらく奴の仕業やろうな」

こわばった表情でデビッドは言った。

鼠の効果をキャンセルする最上にして唯一の手段は本体である『ドレイン』を『The World』から取り除くことだ。だが『The World』へのログインができなければ、電脳世界に潜り込んだドレインを捉えられない。

「サーバーエラーを意図的に引き起こし、ネット回線からの接続をふさいでしもうたんや」

鼠の群れが餌を求めて疾走しながら自らの通り道をもずたずたに噛み裂いていくイメージを曽我部は想起した。

ドレインは『The World』に籠城する形となった。時間稼ぎのためだ。鼠たちが一働きするまでの間、自分自身を守るために『The World』に入って鍵をかけたのだ。

それだけではない。あの男は『The World』に閉じこもったまま再び鼠を作り始めるだろう。時間が立てばたつほど、その数は増えていく。

そしてCC社の努力が実って運営が再開された時、再び鼠を放つだろう。同時にサーバーエラーを引き起こし……なんてことだ。無限コンボの完成だ。

後手に回ってしまった。ドレインの狙いに嵌ってしまった。

「曽我部はん。こいつはまずいで」

デビッドは言った。この男にしては珍しく焦りの感情を露わにしていた。

「どないする? 打つ手はないんか? じきに犠牲者が出始める。なんとかせな……」

曽我部は腕を組んだ。

落ち着かなくてはならない。冷静にならなければならない。

苛立ちの中で決定された行動はたいてい失敗する。

だが冷静になればなろうとするほど、曽我部もデビッドのように焦燥の思いに駆られていった。

壁の時計を見た。午後二時近く。あと数時間で夕方になる。おそらく六時頃には犠牲者たちが出始める。

今の状況を打開するには、やはりネットの中でドレインを仕留めるしかない。『The World』の中に潜り込んで、あの男を倒さなくてはならない。だがどうやってログインすればいいのか。

そのとき、室内に携帯電話の着信音が鳴り響いた。

デビッドはぎょっとした様子で音の鳴る方を見た。

イスの背もたれに曽我部の上着が掛けられている。そのポケットで携帯電話が鳴っていた。

曽我部とデビッドは顔を見合わせた。

曽我部は立ち上がって携帯端末を取り出した。デビットから受け取った物ではなく、以前から使用している方が鳴っていた。

携帯端末の画面には「不明」とだけ表示されている。

不明?

曽我部はスイッチを入れた。

「もしもし」

呼びかけたが返事はなかった。

遠くで誰かが喋っている。受話器から口を離して、横にいるもう一人と話をしているようだった。

その声には聴き覚えがある。九竜トキオの声だ。

曽我部は耳を澄ました。

「……うん、つぼ押し棒がいいって聞いたんだよ。……でもさあ、あの人ひょっとしたら適当なこと言ったんじゃないかと思ってさ。念のためもう一回確認しといたほうがいいかなって。……うん。そうだよ。どっちがいいのか聞いてみるから。ちょっと待ってて……や、ちょ……そこは指圧ポイントじゃないよ。つつかないでよ……え? もー。何すんの。あはははは……」

あまりにも場違いなのんきな笑い声が聞こえてきた。

少し待ったが、トキオが気づく様子がなかったので、曽我部は咳払いした。

「トキオか。どうした?」

「あ、曽我部さん。どうもです」

トキオがあわてて電話に戻った。

「今、箱根温泉に来てるんですよ。それでお土産について、もう一度聞いておこうかなと思って」

温泉? そういえば、そんなようなことをやりとりした記憶がある。

曽我部はトキオが事務所に来て話していったことを思い出した。あれはいつの事だったか。二、三週間ほど前。まだ瀬戸悠里との接触がなかった頃だ。今ではずいぶん遠い昔のことのように思われる。

曽我部はいつの間にか自分が落ち着きを取り戻していることに気づいた。

トキオののんびりした声を聞いているうちに力が抜けたようだった。

「お仕事中ですか? すみません。それじゃ、またあとで……。失礼します」

トキオはそそくさと電話を切ろうとした。

曽我部の様子が普段とは違うことを感じとったらしい。

そのとき、曽我部の頭の中で何かが形を成そうとしていた。とっさにはその正体がわからなかった。

「待て。待て。待て、トキオ」

「はい?」

「お前さん、今……テレホンカードを使っているのか?」

「ええ。いただいた奴を。人生初テレホンカードです」

「テレホンカードってことは、つまり……」

曽我部の内の何かがその形を顕した。

「公衆電話からかけてるんだな?」

「はい。そうです」

トキオはとまどったように言った。

「あ、使っちゃまずかったですかね? かっこいいカードだったもので見せびらかしてたら、なんか使ってみようって流れになっちゃって。すみません」

「それはどうでもいいんだが……。いやいや。そうじゃない。逆だよ。よくぞこのタイミングで使ってくれたって思ってさ」

曽我部はしみじみと言った。

「え?」

「お土産は何でもいいから。もう何でもありがたく頂戴しちゃうから。せっかくの温泉なんだろ? 楽しんでくれよ。ハバナイス温泉。じゃあなー」

適当なことを言って電話を切った。

立ち上がり、ついたてに引っ掛けておいた上着をとって袖を通した。

「デビッドさん。行きましょう」

「どこへや?」

「足立区西新井。データ機器研究博物館です」

曽我部はVRスキャナを持って外に出た。小雨が降り始めていた。

「一時間ちょいで着きます。フラッシュの効果が出る前に間に合う」

「そんなところに行ってどないするんや」

曽我部の後を追ってデビッドも出てきた。

「ユニット接続機の機材を借ります」

「ユニット……接続機やと?」

二人は曽我部の車に乗り込んだ。

「日本では旧電話回線がまだ生きてるんです」

曽我部は説明した。

「瀬戸悠里は鼠を使ってネット回線に何らかの仕掛けを施し、『The World』への入り口をふさいでいる。しかし、公衆電話からなら、『The World』に潜り込めるかも知れない。旧電話回線を伝って電話システムに介入、そこから特定の信号を使ってログインするんです。古き良きハッカーの手口ですよ」

曽我部はそう言ってイグニッションキーを回した。

「瀬戸はずっとアメリカの刑務所にいた。日本の通信事情には疎い。奴の籠城の盲点をつけるかも知れない」

 

菅井太一郎は曽我部の突然の依頼を快諾し、機器の貸し出しを許可してくれた。

曽我部とデビッドはユニット接続機の入った箱を抱えて駅に急いだ。

電話ボックスはすぐに見つかった。

曽我部は風雨に晒され埃まみれになっているその扉をあけると、ガラス張りの狭い箱内にもぐりこんだ。

ユニット接続機を取り出すと、ケーブルを接続し、公衆電話の受話器にあるモジュラージャックの差込口につないだ。回線の種類を指定し、データ通信ボタンを押してみた。

問題なく起動できそうだった。

デビッドは電話ボックスのドアを開けて頭を突っ込み、床に座り込んだ曽我部を見下ろした。

「駅に話を通して、ここらを立ち入り禁止にしてもろた」

「助かります」

曽我部はVRスキャナを手にして礼を言った。

「他に何か、私にできることはあらへんか?」

曽我部は哀れっぽい声を出した。

「そばにいて手を握っててくれる?」

デビッドは鼻を鳴らしてドアを閉めかけ、もう一度顔を突き出した。

「健闘を祈るで」

「ありがとう」

と、曽我部は答えた。

デビットはドアを閉じた。

曽我部は一度深呼吸すると、VRスキャナを顔に装着した。

リラックスしろ。これからすることにほんのわずかでも間違いがあってはならない。唯一にして最後のチャンス。確実に、ドレインに弾丸を命中させなくてはならない。

鼠たちが犠牲者の脳内を食い荒らす前に。飛び降り自殺が発生する前に。

体調はすこぶる悪い。絶好調とはとてもいえない。

しかし人はいつだって嵐の中の荒野(あらの)を行くしかない。

さあ、『試練』の時だ。

 

隠されし禁断の聖域。

最古のロストグラウンド、グリーマ・レーヴ大聖堂。

湖に浮かぶ孤島で、石造建築が夕陽を背にそびえている。

ドレインは沈みゆく夕日を眺めていた。なんともいえない感傷が彼の心に込み上げてきたが、すぐにそれを振り払った。

あと少しなのだ。

問題の場所はここだ。

ここに『光』があるはずだ、とドレインは思った。

サイバーコネクト・ジャパン社の先代社長が仕組んだというあれはここにあるはず。あの場所に到達しなければならない。そこではじめて彼の『試練』は真の完結へといたるのだから。

物思いにふけっていると、視界の端にうごめくものがあった。

鼠だった。

ドレインは動きを止めた。

彼の鼠はすでに全てあるべき場所に配置しているはずだった。自由な状態で徘徊している鼠はいてはならなかった。そのような手駒の余裕は今の彼にはないのだから。

右手を伸ばして鼠をつかんだ。

指示(コマンド)をうっかり入れ忘れたのだろうか?

ドレインの目が大きく見開かれた。

それは彼の鼠ではなかった。

非常によく似ていた。おそらく本来は彼の生み出したものだったのだろう。

しかし今は別の何者かによって手を加えられ、違うプログラムに基づいて動いている。

その鼠が何らかのデータを外部に向けて発信し続けていることに気づき、ドレインはとっさに握りつぶした。

鼠はか細く一鳴きすると消滅した。

何者かが彼の居場所を突き止めるために送り込んできたのだ。

その時だった。

大聖堂の中で物音がした。

ドレインはためらわなかった。

参道を駆け、両開きの扉を押して中に入った。

堂内は静まり返っていた。身廊に人の姿はなかった。あるはずがない。今、この『The World』にいるのは自分だけのはずだ――

だが、その時、ドレインはあるはずがないものを見て体をこわばらせていた。

あるはずのないもの。存在するはずのないもの。『The World R:2』以降、失われたもの。

アウローラの女神像。

ドレインの口から得体の知れぬうめき声が漏れた。

違う。女神像ではない。これは女神像などではない。

慈愛に満ちた物憂げな顔で訪問者を見下ろすその顔は。

ドレインにとって決して忘れることのできない顔。

幼い頃に死に別れて以来、決して出会うはずのない顔。

瞬間的な憤怒がドレインの全身を貫いていた。

誰がこのようなことをしたのか、それに気づいたからだ。

今、この時、この場、この状況で、このような真似を仕掛けてくる可能性のある人間は一人しかいない。

「フリューゲル!」

 

そう叫んだドレインの左のこめかみにすさまじい圧力を伴った一撃が命中した。

ブリーラー・レッスルの弾丸は、その時彼の脳裏をかすめていたかもしれないあらゆる事柄を奪い去った

 

グリーマ・レーヴ大聖堂正面扉の左側に身を潜めていたフリューゲルは、二メートルの間合いに充分の余裕をもって、ドレインの頭部に弾丸を撃ち込んだ。

銃撃を受け、ドレインの長髪が舞い散った。

ちょうどドアが突風であおられたようにドレインは右方へのめった。紫の布地がひるがえったかと思うと、どさりと崩れ落ちた。並べられている木の長椅子の隙間にうつぶせに体を投げ出し、動かなくなった。

ドレインのPCボディにはたちどころに霜が降り、薄い氷に表面を覆われ始めた。

呪銃ブリーラー・レッスルの強制停止の効果が発動したのだ。

データが凍結されていく、かりかりかりという音を聞いて、フリューゲルはようやく銃をおろした。

全身が緊張でこわばっていた。

ついに弾丸を撃ち込むことに成功した。魔人ドレインを封印したのだ。

これで鼠の力はキャンセルされるはずだ。フリューゲルがログインしてからまだ三十分も経っていない。犠牲者が出る前に決着をつけることができた。なんとか間にあった。

大きく深呼吸してドレインを見下ろした。

乱れた長髪と椅子に阻まれてドレインの顔は見えなかった。

それからフリューゲルは女神像の方を見た。

エリアに配置されるチムチムの木を、ブリーラー・レッスルで撃ち、データを改変してここに持ち込んだのだ。

菅井太一郎から得た情報を元に瀬戸悠里の身辺を洗い、瀬戸が子供の頃に死に別れた母親の写真を入手した。それを偽女神像の顔の上に再現した。ドレインの隙を作り出すために。

非情なようだが、今の状況で悠長なことは言っていられなかった。

フリューゲルはリアル側で彼の報告を待っているデビッドのことを思い出した。デビッドは奇襲の結果がどうなったか気を揉んでいるはずだ。

無事に成功したという事を報告しようと思った。

フリューゲルは携帯端末につながるウィスパーモードのスイッチを入れようとした。できない。

左手がまだこわばっている。よほど緊張していたのだ。苦笑し、手を振って力を抜こうとした。

 

その時、『ヴォータンの槍』が彼の背後から突き出されてきて、右下腹部を貫通し、ブリーラー・レッスルを持つ右手首を串刺しにした。

 

(続く)

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