3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

38 クラッキング

ドイツの女流作家エマ・ウィーラントが交通事故で他界した同日、はるか遠く離れたアメリカの地、デトロイトのユースティスで彼女は生まれた。

廃工場の壁にまとわりつく血のような赤錆と薄暗くよどんだドブ川の放つ悪臭を背景に、暴力と賭博と安酒を求めて身悶えする蛆虫たちのねぐら。便壺にゆっくり沈んでいくクソのような街。それがユースティスだ。

彼女の家系は祖父母の代にドイツから移民し、この街へ流れ着いた。アメリカには大小さまざま無数の街があるというのに。よりにもよって、この街へ。

十七歳になった時、彼女は家族に別れも告げず街を出た。自分の周りの全てにうんざりしていた。ユースティスなどは用無し(ユースレス)だ。今後の生活にあてはなかった。ただ独学で身につけたハッキングのスキルだけがあった。それを頼りに生きていこうと決心した。

爾来、彼女はボストン、ニューヨーク、ワシントンなど東海岸の都市部を転々と渡り歩いた。頻繁に住居を変え、それ以上の頻度で「猟場」を変えた。ネットワークにつながれば彼女を制限するものは何もない。有名大企業のコンピュータを軒並荒らし回った。システムを破壊し、抜き取った情報を、それを欲する者に渡して金に換えた。

クラッキング行為に何の躊躇も感じなかった。

彼女には政治的な信念も信義も存在しない。この国を害するつもりも、他国、例えばかつての母国のために働くつもりも毛頭なかった。スキルの代価としてネットワークに金銭を求めただけだ。報酬の多寡だけが彼女を正しく評価した。

故郷を振り返ることはほとんどなかった。

何もかも全てを、あの街を覆い尽くす赤錆の向こうに捨ててきたのだ。

 

『ALGOS』モニタールームは静まりかえっていた。フリューゲルも、クサメも、KKも、他のプログラマーたちも、固唾を呑んで前面のスクリーンを見守っていた。

カメラは認知外空間上に浮かぶ大艦隊のうちの一隻、二〇〇メートル級超巨大戦艦の内部を映し出していた。

ウーラニアとドレインが向かい合っている。

二人の距離は十五、六メートルほど。

これから始まるのはクラッカー同士の壊し合いだ。システムに害なす存在という点においてまぎれもなく同類、ただこの時この状況では立場の異なる二人。

ウィルスとアンチウィルス。『世界』を壊す側と守る側。

ウーラニアは相手から目を離さないように注意しながらウォールハック・レーダーを作動させた。反応なし。この船には、目の前にいる男と自分以外にはキャラクターは存在しない。

だがウーラニアはその情報を鵜呑みにはしなかった。この男は鼠を伏兵のように忍ばせる。卓越した技術を持つクラッカーでもある。どんなプログラムを用いてデータを偽装しているのかわからない。

そこまで考えたとき、ドレインが動いた。

彼は両手を持ち上げると、自分の体の前でパチと一度叩いた。そしてもう一度、間を置いてパチと叩いた。その音はがらんとした格納庫の中で空虚に響いた。

「おめでとう。ひとまずこの場所にたどり着いたことに関して、素直に祝福させてもらおう」

今のが拍手のつもりらしい。

「しかし……君は一人かね? 例のチームはどうしたのだ」

ドレインは腕を組み、右拳を顎にあてて考え込むふりをした。

「ソフィア隊を誰も連れてこなかった? なるほど、なるほど。ということは、つまりいろいろなことが考えられるな……」

目を細め、品定めするようにウーラニアの身体を見た。

「鼠の脅威に備えて、他の者たちはタウン防衛に回した……いや、そうではないな。私を倒せば鼠が解除されると知っているはずだ……今ここで全力を出すべきだ。そうしないのは……つまり、君は今、一人でしか行動できない」

ウーラニアの表情には何の変化もない。

「ネットスラムで君のチームを観察させてもらったよ。どうやら君と私の能力はある点において非常に良く似ているようだ。ウィルスとアンチウィルスは表裏一体とでも言おうか」

ドレインは喋り続けた。

「君以外の八人は動きが単純だった。プレイヤーが存在しないな。君という本体が遠隔操作する半オートの無人PC――シューティングゲームで言うところのオプションだな。私が鼠を使役するように、君は他の女神たちを使役する……」

そう言ってにこりと笑った。

「だが、私の鼠たちが転送を始めてからもう何時間ほど経っているかな? その間、ずっと働き通しなのだろう? 八体ものソフィアを同時に操作するにはとてつもない精神力が必要なはずだ。君は疲弊している。もう活動時間の限界が近い……と見たが、どうかな?」

ウーラニアは無表情だった。直立したまま、その場で左足を半歩踏み出した。左手を前に伸ばし、右手を引いて腰のあたりに構えた。

「春先のシジュウカラみたいにさえずりやがって……」

吐き捨てるようにつぶやいた。

ダンスの申し出を受けるような優雅な佇まい。しかし両拳を軽く握り込んでいる点が明確に異なる。強いて言うのなら古い拳闘――ベアナックル・ボクシングの構えに近い。

「そんなに歌いたいのなら、たっぷり歌わせてやるよ」

ドレインはウーラニアの構えを興味深そうに見つめた。

その顔には聖者のような微笑が浮かんでいる。

と――

ウーラニアが前に出た。十五メートルの遠間を閃光が走り抜けたようだった。

ドレインが気づいたときには金色のPCボディが目の前にあった。彼女の右拳が縦のまま一直線に飛んできた。

直突き。

想定外の速さの攻撃を、ドレインは紙一重でかわした。

そのまま反撃せずに離れたのは困惑が脳裏をよぎったからだ。

ドレインはウーラニアの飛び道具を警戒していた。先のネットスラムの戦いでソフィア隊が見せた攻撃スキルは二つ。「ナパーム」と「レーザー」。そのどちらについてもドレインはすでに解析を済ませ、対策プログラムを自身に施していた。

だが今の状況で使ってくるのはほぼ間違いなくレーザーのはずだ。スキルの起こりを読み取り、一気に飛び掛って始末する。そのように考えていた。鼠は使わない。アンチウィルスにウィルスをぶつけても被害が大きくなるだけだ。

しかし……飛び道具を使わず、直接殴りに来た?

そこまで考えたとき、ぐらりと地面が傾いだような気がした。

戦艦が揺れたのではなかった。

かわしたはずの拳が自分の額をかすめていたと知って彼は愕然とした。ただそれだけで視界が二重にぶれていた。

ドレインの表情から笑みが消えた。

間髪を容れずウーラニアが再び前に出てきた。同じ攻撃。右の直突き。

その拳が己に命中する直前、ドレインは軽く指を広げた両掌を持ち上げてその軌道を遮った。

ウーラニアの突きをかわさずに両手で受け止める。つかんで引き寄せ、彼女の肩口から一気に引き裂く。デバッグチームの副長にしたように。まずこの女の右腕をねじ切って外す。そう考えたのだ。

タイミングは完璧だった。想定外だったのはその拳に込められた威力だ。止められなかった。両掌の隙間を突き抜け、拳がドレインの鼻にめり込んだ。

目から火花が散り、二重にぶれた世界がさらに歪んだ。

後ろに下がり間合いをとろうとした。

ウーラニアがそれ以上の距離を踏み込んできた。

前蹴りが杭のようにドレインの腹部へ撃ち込まれた。

まともに鳩尾へ突き刺さった。

「ごあっ」

後ろに飛ばされ、着地を誤って倒れた。地面を転がり、すぐさま跳ねるように起きあがって距離を取った。

ウーラニアは最初と同じ構えだ。半身に構え、左腕を前に伸ばし、右腕を引いている。

この女は――乱れた呼吸を整えようとしながらドレインは思った。

この場で一切飛び道具を使わないつもりか。素手で私と闘う気か。

異様な外見や派手な武装に惑わされていた。今わかった。この女のモーションは『拳術士(グラップラー)』をベースにして作成されている。

しかし問題なのはそこではなかった。

ドレインはウーラニアに打たれた箇所のデータが剥落していくのを感じていた。まるでヤスリのついた金属バットで殴られでもしたかのようにPCボディのデータが削られている。ブリーラー・レッスルで撃たれた時とも違う異様なダメージ。

「歌うのはもうやめたのか?」

と、ウーラニアが嘲笑した。

「どうした? もっと面白いこと言えよ」

ドレインは身構えた。

この女の性能は謎だが、これ以上攻撃を受け続けるのはまずい。

ウーラニアが嗤った顔のまま、再び突進してきた。

とっさに身を屈めたが、今度は右拳で突いてこなかった。

フェイント――気づいた時にはもう次の攻撃を喰らっていた。

ウーラニアの右足が翻ったかと思うと強烈な下段蹴りが叩き込まれた。ローキックではない。ドレインの左膝を正面から踵で踏みつけるようにして蹴った。

「ぎっ」

よろめいたところへボディブローが来た。手で払いのけようとした。できなかった。ガードしようとした自分の腕ごと、文字通りの鉄拳がドレインの腹にめり込んだ。前蹴りを受けたところと同じ箇所だ。

「がはっ」

 

ドレインはPCボディをくの字に折り曲げて肺の中の空気を吐き出した。息が吸えない。腹部の神経をじかに鷲掴みにされたようだった。

「――あたしが飛び道具(タマ)を使わないのは」

ウーラニアが口を開いた。

「『てめぇがすでに対策プログラムを施してる』……それもある。だが最も大切なのは、確実を期すためだ。確実に、今、ここで、この手で直接てめぇを破壊して鼠どもを消し去る。殴り殺して始末する」

彼女の美しい唇に禍々しい嗤いが浮かんだ。

「逃げられると思うなよ、鼠使い。データの欠片も残さねぇぜ」

その言葉を最後にウーラニアはラッシュの体勢に移行した。

衝撃波を続けざまに浴びせられたようなものだった。

突きが、蹴りが、ドレインの体に矢継ぎ早に吸い込まれていく。

疾すぎる。重すぎる。防御が通用しない。受けてもそのまま削られる。

ドレインは両腕で頭を抱えるようにした。

それはガードと呼べる代物ではなかった。頭部へのクリティカルヒットをかろうじて避けているだけだ。

嵐のような連撃にもみくちゃにされながらも、ドレインは自分が格納庫のどこにいるのか、位置を正確に掌握しようと試みていた。

これを使うつもりはなかった。あくまで念のために配置していただけだった。相応の被害も出るだろう。だがやるしかない。

攻撃の間がほんの一瞬開いたタイミングを狙い、ドレインはようやくウーラニアの間合いから逃れた。

すでに勝利を確信しているらしいウーラニアは特にあわてる様子もなく悠揚とした足取りでドレインを追ってくる。

その足が床の一角にかかった瞬間を逃さず、ドレインは『待機』から『攻撃』の指示(コマンド)に切り替えた。

壁に擬態していた鼠たちが一斉にカモフラージュを解き、ドレインの頭上を超えてウーラニアに殺到した。

降り注ぐ鼠の群れにウーラニアは反応できなかった。たちまちのうちに彼女の金色のボディは紫色のエフェクトに埋め尽くされ、見えなくなった。

あらかじめこの格納庫の一角に、きっかり千匹の鼠を擬態させて配置させていたのだ。

鼠の群れに飲み込まれ身もだえするウーラニアを見つめながら、ドレインはようやく呼吸を整えることができた。

ウーラニアはこれから死にものぐるいの脱出を試みるだろう。その武装による抵抗で二割弱の鼠は死ぬかもしれない。だがそれでおしまいだ。一度この鼠の絨毯に取り込まれれば脱出は不可能――フリューゲルのように奇策を用いない限り。

存分に食いちぎれ、鼠たち。

その時、鼠たちによって象られた人の形をした瘤から光が奔騰し始めた。

複雑な魔法陣のような描線が鼠たちの絨毯の上いっぱいに展開したかと思うと、大音響とまばゆい輝きが全てを覆い、そして吹き飛ばした。

その一瞬の間に、ドレインは鼠たちが一匹残らず灼けて気化するように消滅していく様を見た。

「何か企んでいるとは思ったが」

光が収まり、鼠の絨毯を完全に引き剥がしたウーラニアがこともなげに言った。

「ステルス機能を持った鼠か。くだらねぇな」

データの屑と化した鼠の残骸が降り注ぐ中、ドレインはがっくりと跪いた。目の前の出来事が信じられなかった。体の芯から込み上げてくる震えを押しとどめることができなかった。

何と言うことだ。こんなことが。馬鹿な。今のは。

今のは『データドレイン』だ。

 

「Sophia System Security」、通称SSSバージョンと呼ばれるソフィアは、女神アウラのデータを抽出して人為的に作成されたプログラムである。

その開発は二〇一〇年のアカシャ盤にまつわる事件の直後からスタートした。そしてそれは神の力である『データドレイン』をどのようにして人為的にコントロールするか?という挑戦の歴史でもあった。

強力無比な仕様外スキル『データドレイン』は、それを放つ者に対して何らかの資格を求める。そして資格のない者が無理矢理データドレインを放とうとすると、それはデータの暴走という激烈な形で周囲に災いをもたらす。禁忌に触れた人間に対する神の怒りのように。

初期の開発期間が過ぎる頃、開発チームは一応の成果としてプロトタイプの「ソフィア」を作り出した。

アンチウィルスとして充分な性能を持つこのソフトは、しかしアウラのデータをほとんど活用し切れていない。それだけで精一杯だったのだ。アウラを生み出した天才ハロルドと四つに組んでも歯が立たないということを彼らは嫌というほど思い知らされた。

そこで発想をがらりと変えた。

精密なコントロールができないのであれば、最初からコントロールしなければいい。

常時データドレインを低出力で放出し、力の蓄積を避け、予測不能で致命的なデータの暴走を回避する。

金色のソフィア『ウーラニア』はそういう思想で設計されている。

例えるならそれはクラゲの刺胞だ。彼女の全身は触ると発射される極小のデータドレイン群によってくまなく覆われている。すなわち全方位ゼロ距離の接触型データドレイン。ただ殴り、蹴るだけでウィルスのデータを削り取り破壊していく。

ボディが金色に光って見えるのは常に『放出』し続けているからた。

その光を利用した光学迷彩による擬態は副次的な産物に過ぎない。

ウーラニア以外のソフィア隊メンバーは、オプション的な存在であると同時に、データの暴走を逸らし緩和させる避雷針の役割を持つ。

とはいえ、当然、プレイヤーの負担は途方もないものになる。本来の『腕輪』の適格者とはまた違う意味合いでの素質が必要になる。

だからこそ『ALGOS』によるサポートや常時メンテナンスが必要不可欠なのだ。起動時間もごく短時間に限られる。

だがこの問題に関してはハロルドのような天才的存在ではない開発チームにも掌握できる。技術の開発によっていずれ克服できる見込みがある――

ウーラニアの身体に接触した鼠たちが消し飛ばされる寸前に送信してきた情報により、ドレインはこれらの事柄を理解した。

ウィルス相手ならほぼ無敵――なんという謙遜に満ちた言葉なのか。

ドレインは自分が寄せ手を誤ったことを悟った。

ウーラニアは決して真正面から戦ってはならない相手だった。

鼠たちへの被害を恐れるあまり、一対一の場に持ち込んだのは悪手だった。

持久戦を挑むべきだったのだ。

長時間に渡って疲弊させ、消耗を強いるようにして戦っていたなら。

「……もっと楽に勝てたのに……」

喉の奥で小さくつぶやいた。

 

その声はウーラニアには聞こえなかった。

彼女はドレインをすぐさま攻撃しようとはしなかった。

相手がまだ何かを隠し持っていると感じたのだ。

ウーラニアが見下ろしているのは、邪悪な手負いの魔獣だった。それが地面に膝をつき、うずくまり、首をもたげて彼女を睨んでいる。隙あらば一瞬のうちにこちらの喉笛に飛びかかり、とって喰おうとしている。

まだ牙がある。嫌なツラだ、とウーラニアは思った。

その魔獣が口を開いた。

「信じられない。まさか君がそんなスキルを持っていようとは……」

かすかに語尾が震えている。先ほどまで手加減無しの拳で滅多打ちした。そのダメージのせいだろう。

「まさか……データドレインだなんて……」

消え入りそうな声。だがそこでにわかに声量が大きくなった。

「『ドレイン』……! 『データドレイン』……!」

ドレインはゆっくりと立ち上がった。

その顔は満面の喜色で彩られていた。

「まさかここでそれが来るとは。素晴らしい。実に素晴らしい。ネットの遺棄を願うこの私ドレインの前に、データドレインを携えた君が現れた。なんという奇跡、なんという僥倖。その単語の持つ重みをおそらく君自身は理解できまいが……データ(情報)! ドレイン(下水道)とは……!」

「何ぃ?」

と、ウーラニアは聞き返したが当然のように無視された。

「そうだ。思い返せば、そもそもネットスラムの出来事からして宿命的に暗示的だったのだ。私はあの時、フリューゲルの言葉に触発されて『ドレイン』と名乗ろうと決心した。その直後に君が現れた。『データドレイン』を持つ君が。なんてことだ。全てはあらかじめ明らかにされていたのだ……。この私に与えられた啓示そして祝福なのだ……」

ドレインは恍惚の面持ちで喋り続けている。

「以前にも増して、私は自分が正しき光の道を歩いていると感じるよ。私は『試練』に選ばれている。私の『試練』を何か大きな意思が導いてくれている……」

「そうかい。よくわかったぜ」

ウーラニアは半身になって右拳を持ち上げた。

「じゃあ死ね」

「だから、これから私が言うことは」

ドレインは構わずに続けた。

「私の正しさを再認識させてくれた君へのささやかな礼なのだ、ジュディ・ゴールドマン。私の言葉に耳を傾けたまえ。君にも正しさというものを分け与えよう」

ウーラニアは動きを止めた。

彼女をその名前で呼ぶ者は久しくいなかった。彼女自身半ば忘れていた名前。故郷デトロイトに捨ててきた名前。

「ジュディ、君はCC社に与えられたテクノロジーを完全に使いこなしている。ウーラニアを完全に理解している――と思っている。だが本当にそうだろうか? そもそも君の理解は正しいものなのか?」

ドレインの語る声は格納庫の中で反響していた。

「体に染みついた過去から逃げることは誰にもできない。二年前、君は故郷ユースティスを後にした。逃げ出した。両親から。家族から。故郷から。あの赤錆の臭いただよう町から」

ドレインの言葉を聞きたくなかった。しかし不可視の力で絡めとられたようにウーラニアは硬直していた。

「君は自分が捨てた側だと思っている。思い込もうとしている。デトロイトの富裕層であるゴールドマン家に嫌気が差したのだと。だが本当にそうだろうか? それは正しい理解なのだろうか?」

ドレインの眼が唸りを上げたようだった。

「もちろん違う。君の家族が君を捨てたのだよ。だから君は仕方なく家を出た。順序を間違えてはいけない。君は両親の期待に沿うべく努力した。ゴールドマンの姓にふさわしい人間になろうと努力した」

それは彼女と彼女の家族しか知りえないことだ。

「だが無理だった。トロフィーキッズにさえなれなかった。君の両親は失望し、君を……」

ほんの少しだけ、言葉を切った。

「……見放した。それが正しさというものだ」

ドレインはかすかに首を振り、慈愛に満ちているとさえ表現できる瞳でウーラニアを見つめた。

「ユダヤの高僧は土をこねて人造人間を作り、使役させたという伝説がある。ジュディ、君という存在はまさにそれ……ゴーレムだ。作り手の都合の良いように利用され……捨てられ……誰にも認められず……君を理解してくれる者はいない。どこにもいない」

ドレインの声がさらに反響した。

「哀れな人形よ。ゴーレムよ。君には魂がない。魂なき者は存在するに値しない。だから私は言ったのだ。君は『試練』ではない、と」

「ウーラニア――」

戦いに突入してから初めてチャットのスイッチが入り、フリューゲルの声が聞こえてきた。

「事情は知らないが、熱くなるなよ。奴は誘っている。お前さんのミスを」

「わかってるぜ。あたしは冷静だ」

ウーラニアもチャットで答えた。その声は平常のものと変わらなかった。

「たわ言ぬかしやがって。クソ安い挑発さ。飛び道具の攻撃を誘ってるわけだ。隙を作って逃げ出すつもりか、それともカウンター狙いか。だが何もさせねぇぜ。このまま……一気に殴り殺す!」

ウーラニアはそう言って突進しようとした。

その瞬間、ウーラニアよりも早くドレインが前に出た。

打たれ続けた体のどころにそんな余力があったのか。彼女が動き始めた矢先、一瞬の間を突かれた。

稲妻のようなタックル。パートナーをワルツに誘うようにドレインはウーラニアをひたと抱擁した。組み付いてきたのだ。

ウーラニアはとっさに左手で相手の襟首をつかみ、右拳をその顔に打ち込もうとしたが、ドレインの手がウーラニアの手首を押さえ、万力のような力で固定した。

悪寒がぞくりとウーラニアの背を走った。リアル側で首筋の毛が逆だっていた。

「この距離がベストなのだ」

ドレインはウーラニアの耳元で優しくささやきかけた。

「これから放つのは正真正銘のとっておきという奴だ。まさか、ここで使う羽目になるとは思ってもいなかった。君のおかげで少しばかり予定が狂うな」

莞爾として笑った。

「だが、最も大切なのは、確実を期すということだ。確実に、今、ここで、直接この手で君を破壊(クラック)する……」

破壊という言葉を口にすると同時に、ドレインは今まで撓めてきたそれを開放した。

『The World』にログインして以来、少しずつ少しずつ丹念に積み上げ蓄積してきたエネルギー。神をも凌駕する黒い森のパワー。

黒牢樹の片鱗。

ウーラニアは途方もない光と熱に包まれたように感じた。

 

その爆発の振動は、はるか彼方、『ALGOS』でも確認することができた。

ノイズが走り、ウィンドが次々に消え始めた。

「い、今のは何だ!」

KKが飛び上がって叫んだ。眼がつり上がっていた。

「やられた。黒い森の力や」

クサメが喉の奥でうめいた。

「なんちう奴や。自分の艦隊ごと吹き飛ばしよった」

『ALGOS』のモニターローム内が地震のように揺れ始めた。『ALGOS』だけではない。『The World』のデータそのものが今の爆発の余波で揺れているのだ。

「だ、だから言ったんです! カメラを上げるとデータが不安定になると!」

KKがまたしても見当違いの唸り声を発した。

「これはあなたがたのせいです! 私は『ALGOS』のギルドマスターとしてお二人を訴え……」

幸いなことに、彼の責任転嫁の繰り言を最後まで聞くことはなかった。途中で途切れた。  サーバーエラーが発生したのだ。

強制ログアウト。 

フリューゲルも、クサメも、KKも、プログラマーたちも、その他のプレイヤーたちも、全員『The World』の外にはじき出されていた。

 

はじき出されたのはプレイヤーだけではなかった。

鼠たちもまた同様だった。

タウンに転送してからずっと目的地のない不毛な行進に従事していた鼠たちは、その鼻先に漂ってきたある臭いを嗅ぎつけていた。

これ以上ないほどに魅力的な臭い。どうしてこの臭いに今まで気づかなかったのだろう。甘く、温かく、湿って、美味そうな臭い。人間の脳が放つ芳醇な香り。

行かなくては、と彼らは思った。どんな障害を乗り越えてでもこの臭いの元へ行かなくては――

『The World R:X』のネットスラムをのぞく全五つのタウンに集結した鼠たちは『脱獄(エクソダス)』を完成させるために最後の行動を開始した。

そこへサーバーエラーが重なったのだ。もちろん偶然ではない。そのように仕組まれていた。強制ログアウトの爆風を背に受け、追い風にして、鼠たちは一目散にかけ始めた。その小さな体に積載された軽微なデータが許す限りの力を四肢に込め、端末へ、端末へ、端末へ――

個体差の一切ないデジタルコピーの鼠たちの大群が、風切り音のようなすさまじい鳴き声を放ち、端末へ、端末へ、端末へ――

牙をひらめかせ、よだれの糸を吐き散らして、怒涛のように波濤のように端末へ、端末へ、端末へ――

無線も有線もお構いなしに、電気でかたどられた道をたどり、データの限界をこじ開け、邪魔するもの、さえぎるものを喰いつくし、殲滅し、道そのものをずだずたに引き裂きながら、端末へ、端末へ、端末へ――

ネットワーク回線を通じて『世界』の外へ飛び出し、端末へ、端末へ、端末へ――

そして、果てにたどりついたなら……

 

その日、『The World』にログインしていたプレイヤー、『The World』プレイヤーを知人に持つ者、その知り合い、そのまた知り合いたちのモニター上で光が炸裂した。

光はほんの一瞬であったし、使用者の瞬きのタイミングによっては全く認識さえできない程度のものだった。

だが、その時すでに鼠たちは臭いの元へと到達していた。彼らの創造主が彼らに示した約束の地ヘ。楽園へ。膨大な数の柔らかい脳へと。

エクソダスは成功した。

 

(続く)

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