3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

37 悪意の群れ

二〇二三年六月八日、木曜日。

リーリエを学校に送り出した後、曽我部は事務所に向かった。

この時分には珍しく雨は止んでいた。雲の隙間から太陽が顔をのぞかせ、濡れた新緑の匂いが通りに満ちていた。窓を開けて清々しい空気を車内に入れた。すばらしい一日になりそうだ。瀬戸悠里が大人しくしていてくれれば、の話だが。

「六月八日の木曜日、私は私の鼠たちを全世界に向けて解き放つ」

と、瀬戸はマク・アヌ港の路地裏で言った。

「鼠たちは各端末に降臨し、ネットに倦み疲れた者たちに大いなる『救いの光』を与えるだろう――」

事務所に到着し、机に座ってパームパソコンを開くと、NABのニュースサイトに行き各ページの隅々まで丹念に目を通した。表面、経済欄、社説欄、総合欄、国際欄、お悔やみ欄、全てを読んだ。アメリカがどうかして、ロシアが反応して、中国が何かして、イギリスがやっぱりあれで、内閣が、輸入が、輸出が、野球が、サッカーが、交通事故が、火事が、地震が、株価が、諸々色々起きた結果、今年の家庭菜園にはキュウリがおすすめです、云々。

瀬戸の暗躍を連想させるような事件は何一つなかった。世の中はそれなりに物騒でそこそこ平和に保たれているようだった。

だがそれでも曽我部は不安を感じずにはいられなかった。想像もつかない何かが起きるのではないか。そんな予感があった。

午前十時前にデビッドから電話がかかってきた。これから事務所に行く、と彼は言ったが、その声には暗い響きがあった。

「何かあったのですか?」

受話器の向こうでしばし沈黙があった。

「本部から知らせがあったわ。セトが見つかった。リアルで」

デビッドは言った。

曽我部は受話器を握り直した。

「捕まえたのですか」

「いや。無理や。捕まえられん。永遠にな」

デビッドは喉から何かを吐き出すように言った。

「見つかったんは、奴の死体や。死んで三ヶ月以上は経っとるらしい……」

電話を切ると曽我部は窓の外を見た。

初夏の陽射しの下に悪夢が染み出てくるのを目撃したような思いだった。

予想していた通りだった。予想外のことが起こった。

 

午前十時三十分、デビッドがタクシーでやってきた。青い顔をしていた。

「まず流れを整理しましょう」

と、曽我部は言った。

「瀬戸悠里が出所したのは去年の六月。その後、サンディエゴ社に雇われたが、九ヶ月後、今年の四月に失踪した。『The World』で私がドレインと出会ったのは六月三日。そして今日、瀬戸の死体が見つかった」

瀬戸悠里はコロラド州郊外の廃屋で見つかったという。廃屋とは遺棄された山小屋だ。部屋の隅の椅子に座り、うたた寝するような姿勢で死んでいた。争った様子もなく、警察は自殺と判断した。死因は不明だが薬物を使ったのではないかと推測されている。

コロラドの乾いた気候にさらされたおかげで遺体は腐敗せずミイラと化していた。身元確認は本人の指紋で行うことができた。

「死体の状況から、瀬戸の死亡時期は今年の一月から三月の間。遅くとも四月以降ではない」

デビッドはうなずいた。

「私たちがゲームの中で瀬戸と会って話をした時、奴はリアルですでに死んでいた」

「そういうこっちゃ」

「では……『ドレイン』を操作しているのは?」

「誰か別人が瀬戸悠里になりすまし、PCを操作しとる」

デビッドの答えを曽我部は首を振って否定した。

「それはないと思う。セトに成り済ませるような人間がいるのなら、今までの調べで挙がっているはずです」

「しかし……それやったら……この場合、どういうことになるねん?」

デビッドは慎重な口ぶりで聞いた。むろん彼はその答えを知っている。わかっている。わかった上で曽我部にそれを言わせようとしている。

曽我部は言った。

「瀬戸悠里の精神だけがゲームの中に入り込んで活動している」

曽我部とデビッドは互いの顔を見つめ合った。

「笑えんジョークやな」

「たちの悪い冗談ですね」

デビッドはかぶりを振った。

「けど、ありうるわ。『The World』ならな。過去に似たケースは何件も報告されとる。『R:1』でも、『R:2』でも。――ただ、今回特異なのは、どうやらあの男は自ら望んで未帰還者になったらしいちう点やな。人為的未帰還者――いや、奴の場合は『自発的未帰還者』とでもいうべきか……」

何のためにそんなことをしたのか? それもわかりきっている。あの男自身が何度も言っている。余人には共感も理解もできない『試練』とやらのためだ。誰にも邪魔されないよう肉体を切り捨てて電脳世界に深く潜り込んだのだ。

リアル側で瀬戸を拘束するという手段はとれないことが判明した。あの男を止めるにはゲームの中で何とかするしかない。

それから小一時間ほどかけて曽我部とデビッドは他の情報のすり合わせを行った。

デビッドはNAB赤坂支部から仕入れた情報を曽我部に話した。

「――二〇二二年の事件の陰には、黒い森の力を駆使する猫PCがおった。そいつは、一般PCたちの意識を『The World』に閉じ込めたり、飛空挺をまっぷたつに割ったり、背景データを巨大なモンスターに変換して動かしたりとか、とにかく相当なむちゃくちゃをやったらしい。――それから、情報屋の話もちゃんと裏が取れた。鼠の画像を担当者に確認してもろたんやけど、鼠どもが持つ紫色の六角形エフェクトと全く同じものを、当時出現したモンスターどもが身にまとっとったそうや」

「今回のケースとほとんど同じですね」

曽我部が言うと、デビッドはうなずいた。

「瀬戸が黒い森の力を利用しとるのは間違いないやろうな」

かつてフリューゲルがアカシャ盤と機能を連結させてブリーラー・レッスルの効果を大幅に性能アップさせたように、瀬戸悠里は黒い森と機能を連結して大量の鼠を作り出していたのだ。あの途方もない出鱈目な鼠の大群の秘密はこれで解けた。

曽我部は元竹馬大学助教授の菅井太一郎と会ってきたことを伝えた。

「彼は瀬戸が逮捕される以前の関係者です」

「ずいぶん古い知り合いやな。あの男が捕まったんは二〇〇三年やろ。二十年以上前の知人か」

「そうです。瀬戸が竹馬大学の大学生だった時の恩師です。その人から興味深い話をいくつか聞けましたよ」

それを話した。

デビッドは妙な顔をした。

「それが何かの役に立つんか?」

「おそらく。奴に弾丸を撃ち込む切り札になりますよ」

その時、曽我部の携帯電話が鳴った。画面に表示された名前は「非通知」となっていた。この携帯端末の番号を知っているのはデビッドの他には一人しかいない。

果たしてウーラニアからだった。

「フリューゲル。今から来られるか」

「どうした」

「クソ鼠どもがタウンに湧いてきやがった。今までどこに隠れてたのかわからねえが、次から次へと転送してきやがる。ソフィア隊で焼いて回ってるが手が足りねえ」

にわかに全身の血が熱を持ったように感じた。

やはり瀬戸悠里が仕掛けてきたのだ。

「あんたが『ALGOS』に来てくれると助かる」

「わかった。すぐに行く」

「KKはテンパってて役に立たねえ。尻を蹴り上げて働かせろ」

 

『ALGOS』の@HOMEは蜂の巣をつついたような騒ぎだった。

前回訪問した時には一切姿を見せなかったシステム管理者PCたちが十数人ほど右往左往していた。彼らが常勤するプログラマーたちなのだろう。

彼らに混じってKKの姿があった。彼はフリューゲルたちを見ると、驚いたように端末席から立ち上がった。

フリューゲルは手を上げた。

「先日はどうも」

「フリューゲルさん。なぜここに」

「暇つぶしに顔を出しただけさ。調子はどうお?」

KKは明らかに焦燥していた。鳥の仮面が少しずりさがっていたがそれにも気づいていないようだ。険しい目でフリューゲルを睨んだ。

「今は業務中です。申し訳ありませんが、ここでの活動は部外者にはお見せできません。即刻退出してください」

「まあまあ。まあまあまあ。とっておきの資料を持ってきたんだよ。ほら、約束した鼠対策のマニュアル」

もちろん嘘だ。そんなものは用意していない。フリューゲルは大袈裟な動きでプログラマーたちを見回した。

「けど、何か起きたの? 大変そうな雰囲気だねぇ」

「フリューゲルさん――」

「『我々は協力し合える』。そうでしょ?」

軽い口調を装って言い、それから低い声で言った。

「急がないと手遅れになるかも。何が起きてるのか知らないけど。お前さんが責任者なんだろ?」

KKは言葉に詰まった。損得、見得、責任、トラブル、機密保持、打算、心の中で様々なものを天秤にかける様子がありありとうかがえた。

二秒ほどためらってからKKは折れた。彼はフリューゲルを部屋の中央に通した。

「実は、今、異常な事態になっているのです」

KKが傍らのシステム管理者PCに合図すると、壁面に無数のウィンドウが出現した。鼠の群れと、それを追うソフィア隊の映像が映し出された。

フリューゲルは目を見張った。

鼠、鼠、鼠。全てのウィンドウは鼠で埋め尽くされていた。鼠たちは体を密着させている。密着したままどこをめざすとも知れず疾走を続けている。

その上空背後からソフィアたちがそれぞれナパームを繰り出していた。だがネットスラムでは効果覿面だったはずの爆撃は今は鼠たちを始末し切れずにいた。ナパームの直撃は何匹かの鼠たちを吹き飛ばしてはいた。

しかし爆発が去り炎と煙がおさまると、その下から再び鼠たちが這い出してきて疾走を再開するのだ。きりが無かった。どこまで行っても果てがなかった。暗褐色の絨毯で覆われていた。まるで地滑りが起こっているかのように絨毯が動いていた。

「鼠の群れを壊滅寸前に追い詰めてたんじゃないの?」

「そのはずだったのです。本日の深夜零時の時点で、鼠の数は三百程度にまで落ちていました。あと一息――今日中に根絶できる見込みでした。それが、今朝、全タウンといくつかのエリアに鼠の群れがいきなり出現したのです。しかもその数は今も増え続けています。ソフィア隊が手分けして駆除活動を行っていますが、とても手が足りない。鼠の増えるスピードが早すぎるんです」

「増え続けてる?」

曽我部は聞き直した。

「あー。今、何匹なの?」

KKは答えにくそうにした。

「――数分前に、三億匹を越えました」

フリューゲルは絶句した。

予想をはるかに上回る数字だった。

ネットスラムの闘いでソフィア隊は鼠たちを圧倒したが、全てをデリートするのに七人がかりで三十分弱の時間を要したと記憶している。あの時の鼠の群れはおそらく一億程度。今はその三倍ということだ。

ウィンドウが全て消え、替わりに大きな一枚のウィンドウが壁一杯に展開した。

「『The World』の各サーバーの俯瞰図を一枚に統合したデータ図です。一つの赤い点が百匹程度の群れだと考えてください」

和紙の上で朱墨の筆を振り回したように、小さな無数の赤点が巨大ウインドウ上に描写された。とても数え切れない。『世界』が鼠どもに浸食されつつある。

黒い森のパワーとはこれほどのものなのか。

マク・アヌ港の路地裏でドレインは言った。

「この『世界』を、欲望の鼠で埋め尽くしてやる――」

今、大詰めの勝負を仕掛けてきているのだ。

正念場だ、とフリューゲルは思った。奴の攻撃を受け切らなくてはならない。耐え、しのぎ切って、それで初めて反撃のチャンスが生まれる。

「私の計算では、今日中にけりを付けられるはずだったんです。それなのに、ウーラニアが出撃を渋ったせいで……」

KKが言い訳がましくつぶやいた。

「私があれほど、今のうちに早く全滅させろと言ったのに……」

それは見当外れもはなはだしい意見だったが、フリューゲルは何も言わなかった。

「……ウーラニアは?」

「マク・アヌで活動中です。あそこは鼠の数が最も多いんです」

「彼女と話がしたい」

「それは……」

KKは口ごもった。

「何か問題が?」

「ご存じかとは思いますが、ウーラニアは扱いづらい性格です。こちらからの呼びかけで業務を中断されるのを非常に嫌っています」

「大丈夫だよ。二、三、ちょいちょい聞くだけだから」

疑り深そうな眼で見てから、KKは卓上のチャット用マイクのスイッチを入れてフリューゲルに渡した。

「では、これを使ってください」

フリューゲルはマイクに向かって呼びかけた。

「ウーちゃん。聞こえるかぁ?」

「ああ? 誰だ?」

室内にウーラニアのとがった声が響き渡った。

「フリューゲルだ。お仕事中に申し訳ないが、少ーし話を聞かせてほしい」

しばらく間があった。

「クソの蓋にもならねえチンピラ様のご推参かよ。なんでてめぇがいるんだ? このクソ忙しいときに……」

不機嫌そうに唸ってから怒声と罵声をあげた。

「KK、てめぇがこいつをモニタールームに入れたのか? 何考えてやがる! 今がマジでやばい時だってのかわからねえのか?」

フリューゲルがマイクを差し出すと、KKが口を近づけて答えた。明らかにひるんでいた。

「すまない。私もそう言って断ったのだが、是非にということだったので……」

「クソ野郎。あたしのバックアップどころか足を引っ張るってのはどういう了見だ? こりゃ契約違反になるんじゃねのか? てめぇのせいで駆除に失敗したらどうするんだよ!」

「わかった。それについては後で話し合おう。今はとにかくフリューゲルさんと話をしてくれ」

KKが相手をなだめるように言った後で、フリューゲルはマイクを持ち直して呼びかけた。

「あー。いいかな?」

「いいぜ、フリューゲル」

がらりと声の調子を変えてウーラニアは言った。

「何が知りたい?」

KKが目を丸くしてフリューゲルを見たが、一切構わずにマイクに向かって言った。

「まずそっちの状況を教えてくれ」

「あたしたちは各サーバーのタウンに分散して鼠どもを駆除して回ってる」

「リアルタイムで鼠が増え続けてると聞いた。具体的にはどうなんだ?」

「千匹程度の鼠が十分間隔でカオスゲートに送り込まれてくる。ひっきりなしだ。息をつく暇もねえ。転送してきた鼠たちは一般PCを襲わねぇし、ソフィア隊に反撃もしてこねぇ。転送してくるなり走り始めるんだ。どこかに向かっているというわけじゃねえ。だが無目的に暴走してるというわけでもない。同じ場所、同じ道を闇雲にぐるぐる走り回ってるって感じだ」

「焼き払えないのか? ネットスラムの時みたいに」

「奴らの耐久力があの時とは桁外れにアップしてる。ソフィア隊の火力でも一撃ではデリートできない。少なくとも二、三回ナパームを当てて、それでやっと直撃した奴らを仕留められるって有様だ。敵は何らかの対策プログラムを施してきてるみたいだな」

「一般PCたちへの被害は?」

「ない。今のところはな。さっきも言ったが、この現象が始まってから鼠たちはプレイヤーに危害を加えていない。まるっきり無視(シカト)してるといった方が正しいな」

そこでくっくと小さい笑い声をたてた。

「一般PCたちはこれを何かのイベントだと思い込んでるようだ。スクリーンショットを撮っている奴らもいる。気楽なもんだぜ」

「そいつは大いなる救いだな」

と、フリューゲルは言った。

「パニックが起きたり未帰還者が出たりするよりいい。分かった。そのまま続けてくれ」

「何か当てがあるのか? 鼠のパレードを追いかけるのに飽きてきた」

「これから本体の隠れている場所を突き止める」

ウーラニアは口笛を吹いた。

「分かったら教えてくれ。野郎には直接苦情をねじ込んでやる。固いクソをまきちらすんじゃねえってな」

通話を切って後ろに向き直ると、KKとプログラマーたちが息を詰めるようにしてフリューゲルの顔を見返した。

「というわけで」

フリューゲルは彼らに言った。

「鼠たちはカオスゲートの転送機能を使って、タウンに送り込まれてきてる。ということは、『The World』のどこかに鼠の大隊が隠れて待機してるはずだ。おそらく、そこにドレインもいる」

プログラマーの一人が言った。

「しかし……私たちはずっと『ALGOS』のカメラで捜索を続けています」

別のプログラマーが言った。

「それなのに、どこにも反応がない。見つけられないんです」

「待て。勝手に答えるな」

KKがややヒステリックな声で割り込んだ。

「フリューゲルさんの質問には私が返答する」

フリューゲルはトラヴィス・ボンドのログに書かれていた事柄を思い返していた。

トラヴィスは瀬戸の指示で@HOMEの解析を行っていた。瀬戸が鼠を隠しているというのなら、それは@HOME周辺がもっとも疑わしい。

「あー。カメラの機能について確認したい。建物の中は覗けるのか?」

「もちろんです」

KKがうなずいた。

「『ALGOS』のような@HOMEの中でも?」

「問題なく覗くことができます」

「増設した部屋については? 正当なシステムに乗っ取ったものではなく、チート行為によって増設した場合は?」

「できます」

KKは即答した。

「手法は問題ではないのです。『ALGOS』のカメラはチートの産物であろうとなかろうと絶対に見逃しません。そこにデータが存在する限り」

その答えを聞きながらフリューゲルは頭を巡らした。ふとモニターの一つが目にとまった。タウン上空に飛空艇が浮かんでいた。

飛空艇はギルドのシステムのひとつだ。@HOMEをグレードアップさせるとバイク同様に使用できるようになる。

「あれはどうだ? 飛空艇」

フリューゲルはモニターを指さした。

「飛空艇だろうと同様です」

KKは素っ気なく首を振った。

「カメラはプログラム上最高度の高さに設定されています。飛空艇の滞空ゾーンはそのはるか下方にありますから、通常の@HOMEと同じように監視できます」

フリューゲルとの質疑応答を繰り返しているうちにKKは落ち着きを取り戻したらしかった。

「『ALGOS』の監視システムは完璧です。だから、見逃すわけがない」

まるで自分たちが正しい手続きに乗っ取ってさえいれば『世界』は守られる、そうでないのは『世界』の方がおかしいのだ、と言わんばかりの口調だ。

フリューゲルはしばらく黙っていた。

「――カメラの高度を変えることはできる?」

「え?」

「今設定されてる高さよりもカメラの位置を上げられるかってこと。デバッグ機能を使えばできるはずだ」

「無意味です」

KKはかぶりを振った。

「そこにはグラフィックも何もデータが存在しないんですから」

「いいから。できるんだよね?」

「それは――管理者権限ならば、できなくもありませんが――」

「カメラの高度をあげてみてくれ」

フリューゲルは言った。

『The World』の全データを見下ろす『ALGOS』の死角はそこしかない。カメラが唯一見通せない場所。監視の目が届かないところ。つまり、カメラの背後だ。

KKは頑固に言い張った。

「根拠も無しにそんなことはできません。『ALGOS』のギルドマスターとしての責任があります。認められない。それはいたずらにシステムを不安定にする行為です」

「根拠は、『そこ以外に考えられない』だ」

「それでは理由にはなりません。私にはそんな責任は負えない」

「それどころやないやろ」

それまで影のように控えて黙っていたクサメが口を開いた。

KKはそこで初めて気づいたようにクサメを見た。

「あなたは……」

「NAB捜査官のクサメや。本名デビッド・ステインバーグ、ワシントンD.C.本部所属。赤坂支部に問い合わせてもろて結構」

背の高いクサメはKKを見下ろすようにして彼の前に立った。

「フリューゲルはんの言う通りにしたらええやろ。今は火急や。責任だの何やの、詮ないことくどくど言うとる場合やないで」

「ご自身が何をおっしゃっているのかわかっているのですか」

KKはクサメをにらみ返した。

「NABの仕事は、ネットワークの安定を保つことでしょう。今のあなたの発言はそれを真っ向から否定している。NABの権限で我が社に不適切な行為を強要している。これは問題になりますよ」

「強要なんかやあらへん。単に提案しとるだけや」

「提案ですって? ではNABが全責任をとるという事ですか? あなた個人ではなく、NABという組織が、これから発生するかもしれない損害について責任を負うと。そうおっしゃるわけですか。それでしたら私としてもやぶさかではありませんが、しかし……」

「そうとってもらって一向に構わん」

ぴしゃりとクサメが言い切った。

「さっさとせえ」

KKがさらに何事かを言おうとし、言い掛けて口を閉じた。

KKはフリューゲルとクサメの顔を交互に見た。

白々とした空気が場に流れ、KKは取り繕うように咳払いした。

「――そういうことでしたら、私に異存はありません」

KKは傍らのプログラマーに指示を出した。

プログラマーは頷いて端末盤を操作した。

「あなたがたのご要望通りに、カメラの位置を上げますよ。せめて今以上に状況が悪化しなければいいのですがね」

その時、ほんの一瞬、ラグが発生した。

『The World』内のあらゆるものの動きが止まり、音声がずれた。が、すぐに戻った。『ALGOS』のカメラが上空に貼り付けられた「空」のグラフィックを突き抜けたのだ。

「データ量に負荷がかかり始めています」

プログラマーが報告した。

「構わずにどんどん上げてくれ」

ウィンドウにはカメラを通して暗闇が映し出されていた。何も存在しない場所。何も見えなかった。何もなかった。

データが存在しないのだから当然とも言えた。

「まだだ。もっと高度を上げて」

フリューゲルは指示した。

「負荷増大中です」

「いいから、もっともっと上げて」

さらに数回、ノイズが走り画面が乱れた。

不意に――ウィンドウのほぼ中央にポツンと赤い点がともった。

KKが息を呑むのがわかった。

水を打ったような静寂がモニタールームに下りてきた。

赤い点は一瞬後には二つになり、いくつもの点になり、たちまち赤い渦のようになってウィンドウいっぱいに広がり始めた。深い擦り傷からあふれ出す血を見るようだった。

点どころではなかった。今や画面は全て赤く塗りつぶされていた。黒の余白はどこにもなかった。

「俯瞰図から通常カメラに切り替えます」

プログラマーがKKの指示を待たずに端末盤を操作した。

ウィンドウが切り替わり、統合俯瞰図から、データの虚空を浮かぶ飛空挺群をとらえた映像に変化した。

それは飛空挺群というよりはもはや大艦隊だ。ウィンドウで確認できるだけでも、超巨大戦艦が五隻、それよりも小型の巡洋艦がざっと二十隻、さらに小さな戦闘艇がその周辺を取り囲み、編隊を組んで音もなく暗黒暗闇の中を飛んでいる。

あれらの船の中に鼠たちが充満していると考えるのはおぞましかった。

聞きたくなかったが聞いてみた。

「鼠の数は?」

プログラマーがどもりながら答えた。

「さ、三十億匹以上です。これ以上は測定できません」

やはり聞かなければ良かった。

「信じられない。そんな馬鹿な……」

KKはその場にへたり込んでしまった。

「大当たりやな」

と、クサメがつぶやいた。

「鼠の養殖場を、街の空に堂々と浮かべとったとはな」

「PCが搭乗していないかどうか調べてくれ」

KKは頭を抱え込んで動かなくなってしまったが、傍らのプログラマーがフリューゲルに報告した。

「反応が見つかりました。一隻だけ、PCが乗り込んでいる飛空挺があります。一人です。」

「どこにある」

「マク・アヌです」

フリューゲルはマイクをつかんだ。

「ウーラニア。ドレインの居場所が分かった。お前さんの頭の上だ。マク・アヌの上空に奴はいる――」

 

彼は闇の中に佇んでいた。

何も見えず、何も聞こえなかった。

何も感じず、何もわからなかった。

ずいぶん長い間、こうしているような気がした。

たった今、この場所へやってきたばかりのような気もした。

ここはどこだろう、と思った。

その時、彼はいつの間にかその答えを知っていることに気づいた。思い出したのだ。『世界』という単語が呼び水となって彼の記憶を甦らせたのだろう。

そう、ここは地獄だ……。

太陽の光や温もりも届きはしない。

とめどない欲望の奔流があふれ続けるところ。恐ろしい悲鳴や禍々しい叫び声が轟くところ。つながってはならないところ。

彼が覚醒すると、先程は夢の中でさ迷った闇と同じような、黒洞々たる夜のエリア。周囲には漆黒の虚空が無限に広がっている。

彼は立ち上がると、それまで寝そべっていた船首から中央甲板の階段を下りて船腹の格納庫へ入った。

彼が今乗り込んでいる船は飛空挺の中で戦艦に分類されるタイプのものでも最も巨大な二〇〇メートル級の超巨大戦艦だった。

デフォルト設定であれば格納庫には中型戦艦が十数台配備されているはずだが、この船には一隻も積載されていない。完全な空っぽであり、二十メートル四方ほどの巨大な空き部屋となっている。 

ドレインは周囲を見回すでもなく、確かな足取りで歩き始めた。

計画はこれ以上ないほど順調に進んでいる。『脱獄(エクソダス)』の指示(コマンド)を与えられた鼠たちは着々と各タウンに移動しつつある。

タウンのカオスゲートはログインしてくるプレイヤーたちのデータ管理を司っている。そこに残される記録を利用し、ログイン中のPCを伝って外部の端末へ一斉に移動する。それがエクソダスだ。

シックザールPCの産物である鼠は『The World』のシステムの外には出られない。だが『The World』をインストールした端末にならネット回線を伝って潜り込むことができる。サイバーコネクト・ジャパン社の専務取締役、淀川清輝を始末したように。

そして一度個人の端末に潜り込んでしまえば今度は通常のコンピュータウィルス同様にメンバーアドレスを辿って移動できる。プレイヤーからプレイヤーへ。知り合いから知り合いへ。鼠の感染は拡大する。その段階まで移行すれば、鼠たちの行進を止めることは誰にもできない。

あと一時間もしないうちに全ては終わるだろう。

彼の試練は完璧な調和のうちに美しい終焉を迎えるだろう。

そして次の試練が始まる。同じことを繰り返す。何度でも鼠を作り出し、散布し続ける。ネットワーク内に立ち込める汚辱の臭いをリアルの世界へと知らしめるために。

そこまで考えたとき、ドレインは足を止めた。

彼の他には無人のはずの船内に人影を見た。

「――ようこそ。君が来るとは思っていたよ」

ドレインは平静な声音で言った。

金色のソフィアが一個の彫像のように立っていた。

「想定していたよりも若干早いがね。歓迎しよう、ウーラニア」

艦内にどのような手段で侵入してきたのか。先のネットスラムでの闘いにおいて鼠たちを徹底的に虐殺したアンチウィルス。圧倒的な火力を持つCC社の秘密兵器。

「金を用意するんだな。ボスキャラを仕留めた時のボーナスをな」

チャットで誰かと会話しながらウーラニアはドレインを冷たい目で見ていた。口の端を歪めて嘲った。

「これから破壊(クラック)してやる」

「壊されるのは、君だ――」

ドレインは穏やかに言った。聖者の笑みを浮かべていた。

 

(続く)

next「38 クラッキング」へ

ページトップへ

一覧へ