3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

36 乾杯

その言葉は曽我部の内部で反響し続けている。深沈たる森を飛び交う木霊のように。茫漠たる墓場をさまよう死霊のように。シェヴァービングで過ごした数年間の記憶と共に。いつまでもいつまでも。いつまでもいつまでも。

 

二〇一一年、プルートアゲインの翌年。

マフレト・ナイマン教授の推薦により曽我部は副手となった。副手とはいわば教授職のアシスタントだ。学生は学費を納めて学問を学ぶが、副手は学問を学びながら収入を得ることができる。

何よりもありがたいのは既婚者に対して特別宿舎に住む権利が与えられることだ。特別宿舎は大学構内の西のはずれにあった。もともとは結核患者の療養所の一部で、その病室が戦後まもなくマンションの部屋に改装されたものだった。外壁のところどころにひび割れが走っており、それは遠目には巨大な蜘蛛の巣のように見えた。

心配ありません、年内に補修工事が始まるんですよ。曽我部とカヤを案内した年かさの管理人はそう説明した。

半世紀以上経ってますからね、さすがに。でも工事が済めば新築同然になります。お二人の新居にはぴったりです。

どう思う? 下見の帰りにカヤが尋ねた。

なかなかいいね。曽我部は答えた。北壁のひびの形が特に気に入ったよ。あれはロールシャッハに使える。

私はそこ以外が気に入ったわ。報告はいつにする?

今日しよう。曽我部は言った。

その日の夕食後、ヴァイス家を出ようと思っていることを伝えると、ヴァイス夫妻は顔を見合わせた。

ヴァイス夫人は美しい眉をひそめた。

あなたたち、ずっとここにいてくれていいのに。

さらに言い募ろうとする彼女をヴァイス氏は目で抑え、曽我部とカヤに向き直った。

そろそろ独立を切り出す頃合だろうと思っていたよ。彼は穏やかに言った。

行きなさい。行って、存分に自分の力を試すといい。だが、もし将来困ったことがあったのなら、遠慮なくいつでも私たちを頼りなさい。例え困ったことにならなくても、半年に一度くらいは顔を出したまえ。君もカヤも、私たちにとっては家族同然、歳の離れた弟や妹のようなものなのだから。

ヴァイス氏はにっこりと笑い、君たちがいなくなると犬が悲しむよ、そう言って手を差し出した。

悲しむ奴がいてくれて嬉しいです、曽我部は答え、ヴァイス氏の手を握った。

ヴァイス夫人はカヤを抱擁した。

そして四人で額をくっつけ、頬を寄せ、抱き合った。

リーリエは暖炉の前のソファですやすやと寝ていた。

グリットはソファの下に寝そべってあくびをした。

 

新居への引っ越しを終えると、曽我部は休暇を取った。三人用のテントを買い、カヤと一緒にバルト海方面へ遠出した。新婚旅行の代わりだった。欧州自動車道路を北に向かって走った。カヤも免許証を持っていたので、途中何度か運転を交代した。そうして二日かけてロストクに到着した。

街は早い春を迎えたばかりでまだ肌寒かったが、海岸は観光客で大いに賑わっていた。

儚い春を祝福するような清冽な空気の中、曽我部とカヤはゆっくりと歩いて回った。足の下で細かい砂がさくさくと崩れていくのを感じた。途中見つけた売店でサンドイッチとポテトチップスと瓶ビールを買い、草地を見つけて腰を下ろした。

やがて燃えるような赤い夕日がバルト海の彼方に落ちていくのを見届けると、曽我部たちは車に引き返し、ドーム型のテントを組み立てて中に潜り込んだ。

翌朝、目が覚めると、周囲は夜明け前の闇に包まれていた。ほんの一瞬、自分がどこにいるのかわからなかったが、カヤの寝息を聞いてすぐに思い出した。

曽我部は彼女を起こさないように気をつけてテントの外に這い出た。ビールを右手に持って小高い砂浜を登っていき、そこに座った。波の音を聞き、潮の匂いを嗅ぎながら二口ほど瓶をあおった。

曽我部はミュンヘンに来る以前のこと、カヤと出会う前の自分について考えた。あれは俺自身だったのだろうか。そして今ここにいるのは本当に俺なのだろうか。まったく実感が湧かない。

結婚する前と後であらゆる物事が一変してまったく違った風に見えることに曽我部は驚いていた。

今のこの気持ちを何といえばいいのだろう。この感情をなんと表現すべきなのか。

かすかに空が白み始めていた。

その時、どこかで鳥が鳴いた。曽我部は立ち上がり、鳴き声の主の姿を探したが見つけることはできなかった。

テントからカヤが出てきて曽我部の隣にやってきた。

リュージ?

やあ、おはよう。

おはよう。カヤは曽我部の顔を覗き込んだ。暗くてよく見えないけど、笑ってる?

君といるといつもさ。曽我部は言った。ビール飲む?

カヤが慎ましく首を振ってその誘いを断ると、再び鳥の鳴き声がした。

あ、コマドリ。カヤは先ほど曽我部がしたのと同じように海を見た。

曽我部もカヤの視線をたどってもう一度海に顔を向けた。

だがやはり鳥はどこにも見当たらなかった。

朝まだきの冷たい空気に淡い陽の光が溶け込み、夜明け前の海は色を取り戻しつつある。

ねぇ、知ってる? カヤは言った。

渡り鳥の中には、旅の途中で立ち寄った場所にずっと居残り続ける個体がいるんだって。

海を見つめながらカヤはそうささやいた。まるで大きな声を立てるとまだ見ぬ鳥がどこかへ飛び立ってしまうとでも言うように。

怪我して飛び立てなくなるとか、病気にかかったとか、そういう理由じゃなくて、健康な個体なのよ。でも、残るの。曽我部を見た。どうしてだと思う?

おぼろげな光の中でカヤの姿は次第にかすんでいくようだった。彼女の問いは曽我部を戸惑わせた。

あー。うまいコーヒーを出す店を見つけたんだろう。

少し考えた後で、曽我部は多少なりとも気が効いていると思う答え方をした。どうでもいい軽口だ。

カヤはにっこり笑って曽我部に両腕を回した。

それじゃ街に戻って美味しいコーヒーを飲みに行く?

そりゃいい考えだ。曽我部はそう言って彼女を引き寄せた。

来て良かった。海と空の果てのない境目を眺めながら曽我部はそう思った。俺はこの渚でのことを忘れないだろう。そんな予感があった。昨日の無言の語らいを。薄明のこのひとときを。風景を。波と砂と空を。鳥の声を。潮のさざめきを。彼の隣にいてくれる妻のことを。きっと忘れない、曽我部はそう思った。

年末にカヤは子を産んだ。娘だった。サシャと名付けた。

 

そうして多忙な日々が始まった。曽我部の人生において最も充実した時期だ。

毎日午後二時までは学生として講義を受け、それ以降は副手としての仕事をこなした。研究助手たちの補佐を勤め、器具を用意し、実験のデータを集めた。そしてその合間に時間を見つけては自分の課題を進め、いくつもの論文を書いた。

ある時、精神・神経病理研究室の入っている建物が取り壊されることになり、別の建物へ教室を移転させることが決まった。

膨大な量のカルテが問題になった。倉庫に鎮座する紙の山を移動させたり、引越し先であらためて整理し直したりする人手が圧倒的に足りなかった。

単なる負債と化してしまったカルテに対応するため、曽我部はコンピュータ導入の必要性を教授に訴えた。円滑に引越しを行うという名目で許可を取り付けると、曽我部はすぐさま総務部に行ってパソコンを一式借り受けた。そして教授の気が変わらないうちに手空きの学生たちに指示して全カルテの内容をわずか五日あまりでコンピュータに入力させた。

ナイマン教授が気づいた時には、紙のカルテはその本分を全うしシュレッダーで裁断された後だった。

引越しのどさくさに紛れて、いわば曽我部はデータベースのマネジメント業務を刷新したのだ。

それからしばらくの間、教授は苦虫を噛み潰したような顔で講義の時を過ごした。

そして何かの理由で過去のカルテを調べる必要が生じると、曽我部を呼び寄せて言うのだった。

君のマイコンで調べるといい。

マ、マイコン?

だがコンピュータ以外に関してはやはり教授は有能であり非凡な人物だった。曽我部は教授の指導の下、論文を書き続け、やがて学会にも参加して発表するようになった。カルテをデータベース化する際に収集した情報が役に立った。

二年後、曽我部は研究助手へ昇格した。

完全にというわけではないが以前ほどには雑用に時間をとられなくなった。教授の代理で学生への講義を任されることが多くなり、充分というわけではないが必要なだけの報酬を得られるようになった。

その年の夏、バーベキューのパーティーに呼ばれて、曽我部とカヤはヴァイス夫妻のもとを訪れた。

久しぶりの旧家の庭は以前と変わらぬ佇まいで二人を迎えた。

ヴァイス氏の年来の友人たちに混じって、街のいわゆる名士たちが何人も招待されていた。

もうずいぶん長い間、ヴァイス氏は先祖伝来の城を保存するための手続きに取り組んでいた。城はヴァイス氏が個人所有する文化財だったが、今回ついに申請が通り、ヴァイス氏が代表を勤める公益財団法人の所有物となった。そうすることで城の補修維持費に発生する税金を大幅に節約できるようになるとのことだった。

ヴァイス氏は終始上機嫌だった。ヴァイス夫人は接客と料理の用意で大忙しだった。

庭の隅では料理に飽きたらしいリーリエがグリットを相手に絵本を読み聞かせていた。グリットは仔細ありげな顔で彼女のたどたどしい朗読に耳を傾けていた。

サシャをリーリエとグリットに預けると、曽我部とカヤはヴァイス夫妻の手伝いに回った。

一歳違いのサシャはリーリエとは姉妹のように見えた。金髪のリーリエに対しサシャは黒髪だったが、明確な違いはそれだけで、目鼻立ちや体格はよく似ていた。

午前から始まっていたパーティーが夕方過ぎに終わった。

客を見送り、後片付けをした後、四人だけで庭のテーブルに着いた。日は落ちて星が瞬き始めていた。サシャとリーリエはグリットにもたれかかって寝ていた。

ヴァイス氏の音頭で四人は杯を掲げた。

ゲズンタイト(健やかであれ)。 厳かな口調でヴァイス氏はそう言った。

単なる乾杯の挨拶だ。

だが曽我部はこの言葉を忘れることができない。

ずっと後になって当時を振り返るたびに人間の運命を司る何者かの存在を感じずにはいられない。これから数年のうちに自分を含めたこの場の六人の身に降りかかることを思えばこの言葉はあまりにも皮肉すぎる。残酷すぎる。

健やかであれ。この時この場にいた者たちにとってこれほどふさわしくない言葉が他にあるだろうか。

しかしもちろん当時はそんなことを思いもしなかった。

世界は穏やかに輝いていた。祝福に満ちていた。

曽我部は隣のカヤを見た。カヤも曽我部を見て微笑み返した。

カヤは美しかった。この時が最も美しかったといっていい。

そうだ、曽我部は思った。サシャが大きくなって遠くへ行けるようになったら、またロストクの浜辺に行こう。みんな揃って海を見よう。鳥の声を聞こう。その時にはひょっとすると四人になっているかも知れない。次男か次女かわからないが、とにかく家族全員で。

だから働かなくては、研究して、どんどん論文を書かなくては、曽我部はそう思った。

何もかもうまくいっている、きっとこれからもうまくいく、曽我部はそう思った。

 

半年後、カヤとサシャが死んだ。

 

(続く)

next「37 悪意の群れ」へ

ページトップへ

一覧へ