3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

35 ドール症候群

一時間ほど車を走らせて足立区西新井の大通りに入った。駅を横目に迂回し、並木道を過ぎると無骨なコンクリート造りの建物が見えてきた。「データ機器研究博物館」という看板の掛けられた門をくぐり、敷地内の駐車場に車を止めて、曽我部は建物の入り口をうかがった。

来館者の気配はなかった。周囲はひっそりと静まり返っていた。この辺り一帯だけが町の喧騒から切り離されて、水の底のように静かだった。

曽我部は車から出ると、細かい雨に打たれながら無骨なコンクリート造りの建物に向かった。

玄関の扉には頑丈そうな大時代的な錠前がぶら下がっていた。ガラスを透かして中をのぞくことはできたが、館内の明かりは点いていなかった。

黄色い傘をさした男が横手の通用口から姿を現した。左手にコンビニエンス・ストアのポリエチレン袋を提げている。

彼は曽我部に気づくと、傘を閉じながらやってきた。

「今日は閉館日です」

と、その男は言った。やや甲高い声。髪が後退した広い額に、無精髭。フレームの太い眼鏡の奥で落ち窪んだ目が曽我部を見つめている。よれたシャツの胸元には学芸員であることを示す身分証のバッジが留めてあった。

「お休み? そいつは参ったな。定休日ですか?」

「ええ。毎月第二水曜日は休館なんですよ」

そう言うと男は曽我部に背を向け、傘を振って水滴を飛ばした。

またずいぶん中途半端なタイミングで休みになるものだと曽我部は思ったがもちろんそんなことはおくびにも出さなかった。もっと大切な聞くべき質問がある。

「あー、すみません。ひょっとして」

曽我部は男の背中に声をかけた。

「館長の菅井太一郎先生でいらっしゃいますか?」

男の動きが止まった。ゆっくりと振り向いた。

彼が曽我部の顔を見返した時には、先ほどまでは確かにあった、接客を意識し愛想よくあろうとする気配がきれいさっぱり消滅していた。それが地であるらしい、偏屈で癇の強そうな口調で言った。

「マスコミか、君は」

「いえ。違います」

曽我部は名刺を差し出した。

彼は名刺を手に取り、そこに書かれた曽我部の名前と肩書きを見た。

「何の用だね」

「アポも取らずに申し訳ありません。お聞きしたいことがありましてお邪魔しました」

曽我部は携帯端末を取り出すと電子書籍のアプリを起動させ、情報屋から譲り受けたデータの一つ――『ネットゲームが子供を人形にする! ドール症候群の警告』の表紙を表示させた。

「先生がお書きになったこのご本についてうかがいたく思い――」

「話すことなど何もない。帰ってくれ」

菅井太一郎が厳しい声でさえぎった。顔に赤みがさし、額には太い青筋が浮かんでいる。

「どこかの馬鹿がネット絡みの事件を起こすたびに、マスコミは思い出したように私のところにやってきて鹿爪らしい顔で『先生、ご意見を』などと言う。腹の中では私のことをトンデモ本の作者だと嗤っとるくせに、口先だけはネットの専門家だと奉るふりをしてくる。うんざりしとるんだよ」

曽我部は大きな身振りで手を振った。

「トンデモ本だなんて、とぉーんでもない。卓見に満ちた素晴らしい本だと感銘を受けました」

「卓見だと?」

菅井の目が意地悪げに光った。右手の短い人差し指を曽我部に突きつけた。

「どこを読んでそう思った。言ってみたまえ」

「コンピュータが子どもたちに与える影響について、もっと真剣に考えるべきだという真摯な提言をされているところです」

曽我部は即答した。

菅井は思いがけない反撃を受けたように瞬きした。

「『判断力のない人間にとってパソコンは現代におけるメフィストフィレスそのものである。インターネットの推進者たちによれば、ネット内の情報はすべて無料ということになっている。しかし、コンピュータを使っているとき、我々は金銭よりも高価なものを手放している。現代のメフィストフェレスが欲するのは、私たちのもっとも貴重な資源、つまり現世における時間に他ならない』――」

曽我部は手元の電子書籍を見ないように意識しながら本文をそらんじてみせた。昨日の夜、今朝、そして昼過ぎにも読み返したばかりだったから、ある程度の内容は頭の中に入っていた。細部は違っているかもしれないが。

「インターネットを使用するには、現世における時間という代償を支払わなくてはならない。成長に割くべき貴重な時間を吸い取られた子供はどうなってしまうのか。芯の強さ、人望、決断力、忍耐力。そういう資質はネットからダウンロードできるものではない。……先生の主張はまさしくその通りだと思います」

そこまで言って、曽我部は電子書籍に目をやった。

「ほら、ここにも良いことが書いてありますよ。『ソーシャルメディアはソーシャルスキルを育てない』。うまいこと言いますねぇ」

「ほう」

不機嫌そうな唸り声を上げて、菅井は曽我部の胸元に向けた指を引っ込めた。実験の過程で現れてしまった何か疑わしい存在でも観察するような目つきで曽我部の顔をじろじろと見た。

「『知は力なり』。インターネットのメリットを示す言葉として、これをどう思う?」

「冷めたベーコンの焼き直し、といったところですね。不味くなってる」

「ほう」

菅井はもう一度唸った。今度は明らかに驚きの声音が混じっていた。

「珍しいこともあるものだな。私の本をちゃんと読んだ人間がやってくるとはな」

機嫌を直したらしかった。

「しかし、ま! そうですねぇ。あえて苦言を呈するならば」

曽我部は続けた。

「このタイトルは、どうかなーとは思いますねぇ。少し狙い過ぎではないかと」

「そりゃ出版社が勝手につけたんだ! もっと真っ当なもんにしたかったわ!」

怒気のこもった声で菅井は言ったが、彼の雰囲気はすっと和んだものになった。

「それで」

菅井はそっぽを向いて言った。

「なんだったかな」

「曽我部です」

「名前じゃない。用件は」

「この本について、先生のお話をうかがいたく参りました」

「そうか」

菅井は閉じた傘を両手で絞るようにしてバンドで留めた。

「こんな天気の日に、こんなところで立ち話するのも何だな」

曽我部の方を見ないままつぶやいた。

「中で話をしよう」

 

菅井が先に立ち、裏口から博物館一階のホールに通された。

二人の他に人の姿はなく、非常灯のぼんやりした灯りが展示品のケースを照らし出していた。

「ここで待ってくれ。すぐに戻ってくる」

菅井はそう言って奥の小部屋に消えた。そこが宿直室になっているらしかった。

彼が戻ってくるのを待つ間、曽我部は展示ケースの中のものに目をやった。

古今東西のレガシーデバイスがそこにはあった。新技術の発達によって古くなってしまった機械群。テクノロジーの変遷に伴って生み出され、束の間繁栄し、やがて零落し、姿を消していった古き者たちの安置所。

かつて曽我部自身使ったことがあるもの、そうでないもの、見たことさえないものが所狭しと並べられていた。

曽我部は傍らのひときわ大きなケースに収められている機械を見つけ、ふと懐かしい気分になった。何年も前に使っていたことがある。電話機の受話器へスピーカーとマイクロフォンを用いて音響結合し、データ通信を行う通信機器。

「旧式のユニット接続機だよ」

戻ってきた菅井が声を掛けた。ポリエチレン袋を持ったままだった。

「大昔のハッカーたちは、その装置と電話回線を使って世界のあらゆる施設に侵入してみせた」

「ずいぶん懐かしいものが並んでますねぇ。まだ動きますか」

「手入れはしとる。環境さえ整えれば全て問題なく作動するはずだ。そんな機会はないだろうがね」

簡易休憩所のテーブルに通された。

菅井はその一角にだけ電灯を点けると、コーヒーサーバーで紙コップにコーヒーを注いで曽我部の前に出した。そしてポリエチレン袋から牛乳パックとあんパンを取り出して自分の前に並べた。

「私はこいつをやらせてもらうよ。昼飯を食べそこねて買ってきたところなんだ」

時間は三時近くなっていた。

「漉し餡が好きでね」

牛乳パックにストローをさしながら菅井は言った。

「医者に止められてるんだが、やめられん。こいつを食べると、自分がまだ生きてると実感できる」

曽我部はコーヒーを飲んだ。中で何かが死んでいるような味がした。

こうして向かい合ってみると、菅井は中年というよりは初老になりつつある年配らしく見えた。

ふと曽我部は侘びしい孤独の匂いを嗅いだ。一本だけで立ったまま枯れていく木のような、朽ちゆくものの発する空気を。

「――さっきはすまなかったな」

もくもくと口を動かしながら菅井は言った。

「あれは初めて書いた本だが、私にとっては疫病神みたいなものでね。あの本のせいで、ぶしつけな連中が何度もやってきて一方的な取材をしていく。それで、つい感情的になってしまった」

「推察いたします」

曽我部はそう言ってもう一口コーヒーを飲んだ。やはり中で何かが死んでいる。

『ドール症候群の警告』は今から六年前、二〇一七年に菅井太一郎が著したベストセラー本だ。コンピュータが人間に与える深刻な影響を示唆し、当時一大センセーションを巻き起こした。

だが、この本を読んだ人間のうち、一体何人が菅井の真意を理解し得ただろうか。『ドール症候群の警告』という書物の最大の不幸は――そして皮肉なことにある意味最大の幸運は――その出版が『The World』にまつわる暗部のひとつ、AIDA現象が表沙汰になり始めたタイミングと完全に重なってしまったこと。

さらに、そうした時勢が、ベストセラーを作りたい出版社と事件を大げさにしたいマスコミの思惑と一致してしまったことだ。

『ドール症候群の警告』全九章のうち、AIDA現象によるものと思われる事例について言及した箇所は実は一章分にも満たない。そもそもは人間とコンピュータの関わり方を考えようという建議書であり、オカルトやトンデモ本とは無縁の、実直な研究論文集に過ぎないのだ。

当時のテレビ番組が扇情的に取り上げたせいで、『ドール症候群の警告』は最終的に四〇〇万部を越すベストセラーとなった。

だが、と曽我部は思った。

現状を見る限り、その代償を菅井一人だけが今も支払い続けている。

この国の学会は一度でもマスコミに露出した人間を絶対に許しはしない。学問の本流には二度と呼び戻さない。

ここは職場というより、もう墓場に近かった。菅井自身がレガシーデバイスのようだった。東京の片隅に作られた、誰からも忘れ去られた博物館を管理する閑職に菅井は追いやられているのだ。

しかし、そう思う一方で、曽我部は目の前の初老の男に好感を持った。

年齢は離れているが、どこか大学時代の恩師に似たところがあった。

「――単に古いものが良いというつもりはない。それは意味のない郷愁にすぎない。そうではなくて、コンピュータとの付き合い方を考え直すべきだ。……私はあの本でそう言いたかったんだ」

菅井は言った。

「――君が答えたように、『知は力なり』とはフランシス・ベーコンの言葉だが、情報と力を等価とみなす発想は誤用であり改悪だ。ベーコンは旧約聖書を意識していただけだ。聖書で語られる『知』が何に結びついているかというと、それは、教養であり、アイデアだ。経験であり、成熟であり、判断力だ。大局的な認識力であり、思慮深さであって、ネットに転がってるような情報とは無関係だ。そして、力ともあまり関係がない。それなのに、人はネットやそれを支えるテクノロジーを万能の力だと思いたがる。ある日突然生まれた革新的な技術がそれまで抱えていた問題や悩みをきれいさっぱり解決してくれると思い込んでいる……」

菅井は語り続けた。話し相手に飢えていたのかもしれない。

「――それで、何を聞きたいんだね?」

あんパンの最後の欠片を牛乳で流し込むと、菅井がようやく思い出したように尋ねた。

曽我部は口を開こうとして、ためらった。

これから話すことは菅井にとって望ましい内容ではないかもしれない。その可能性は大いにある。不用意なことを伝えてこの男の心境をかき乱すのは忍びなかった。

しかし、だからといって話さないわけにもいかない。

「失礼ながら、先生の経歴について調べさせていただきました。菅井先生は一九九九年から二〇一九年にかけて竹馬大学で教鞭をとられていた。間違いありませんね?」

「その通りだ」

「私は今、ある人物について調べる仕事をしています」

曽我部は言った。

「その人物と、菅井先生の間に、なんらかの関わりがあったのではないかと私は見ています。今日うかがったのはそれを確認するためです」

「ふん?」

菅井は何のことだかわけがわからないという顔をした。

「問題は、この本の序文です」

曽我部は携帯端末を取り出して『ドール症候群の警告』の本文を表示させた。

「序文?」

「『地獄。それは確かにある』……」

曽我部は読み上げた。

「『そこは不浄の地だ。太陽の光や温もりも届きはしない。とめどない欲望の奔流があふれ続けるところ。恐ろしい悲鳴や禍々しい叫び声が轟くところ。つながってはならないところ。そう、そこは地獄だ。掘り起こしてはならないところだ』……」

そこでいったん口を閉じた。

「……碑文詩(エピグラム)というべきですか。これはアメリカのトンプスンという詩人のものを引用した文章ですね」

菅井はうなずいた。

「ああ、そうだ。昔、講義の前によく引用していたものだ。抽象的に話をするよりも、ネットのマイナスの面をイメージしやすくなると思ってね。それで、本の序文にも採用したんだ」

「この碑文詩に関して何か記憶に残っていることはありませんか。誰か、印象深い人物というのはいませんか。たとえば、講義の際にこの詩に強く興味を示したとか」

その質問に対する菅井の反応を目にした時、曽我部は何らかに至る糸をついに掴んだのを悟った。

菅井太一郎は知っていた。それを求める曽我部自身が明確に理解できていない何かを。

「君は、彼のことを――」

と、菅井太一郎は言ったのだった。

「瀬戸悠里君のことを調べているのか?」

 

(続く)

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