3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

29 女帝

ベイクトン、日本有数の超高級ホテル。

小倉に案内された道順を頭の中で反芻しながら歩いていくと、ボディガードが待ち構えているペントハウス・スイートの手前に到着した。

この大男はいい目印になる。

「やあ、ヘンリー。元気してた?」

曽我部はにこやかに笑って声をかけたが、相手は曽我部の言葉を無視してボディチェックを始めた。

「そうか。そうだったな。忘れてたよ」

曽我部はつぶやいた。

ボディガードのごつい手が曽我部の胸元からシャツの第二ボタンをぶっつりと引きちぎった。

「お前さんの仕事は人のボタンをむしりとることだったよねぇ、ヘンリー」

「ボイスレコーダー。こいつは駄目だ」

そう言うと、ボディガードは手を振って曽我部についてくるように示した。

ヴェロニカの部屋に入ると思ったが、彼はそのまま廊下を奥に進んでいった。

やがて黒塗りのドアに突き当った。スイートルームを利用する上客専用カクテルバーのようだ。

ボディガードは曽我部を見降ろすと、ドアを開けて顎をしゃくってみせた。

「あー、ごめん……」

脇をすり抜ける時、曽我部は小声で彼にたずねた。

「……ヘンリーじゃなかったっけ?」

「行け」

曽我部は首を振って中に入った。

店内は薄暗かった。片側にはカウンターがあり、白髪頭の小柄なバーテンダーがグラスを拭いていた。隅にはJBLの名機ハーツフィールドが設置されており、ジャズサックスを静かに奏でている。『暗い日曜日』だ。

その反対側、一番奥のボックス席にヴェロニカ・ベインがいた。

穏やかな照明の元で彼女の肌は青白く、口紅を塗った唇が鮮やかに浮き上がっている。そのために微笑がいっそうはっきりと目についた。

テーブルにはすでに空になったグラスがあった。

他に客はいなかった。

「会えて嬉しいわ、リュージ」

ヴェロニカは向かいの席を示した。

「私もです、ベインさん。そう言ってくれる人はなかなかいない」

曽我部は腰を下ろした。

バーテンダーがやってきた。

「同じものをちょうだい。――あなた、飲み物は?」

「車で来ているので、そうですね。ミルクセーキを。フレンチスタイルで」

バーテンダーはうなずき、ヴェロニカのグラスを下げていった。

「ユーリ・カジンスキー・セトのPCと交戦したそうね」

と、ヴェロニカは言った。

「報告書を読んだ限り、『フリューゲル』にはとても勝ち目がないように私には思えるわ」

質問ではないようなので黙っていた。

「傷はどうなの?」

質問だったので答えた。

「それなりに回復しましたよ。依頼人の呼び出しに対応できるくらいには」

「そう。それはよかった」

バーテンダーが飲み物を運んできた。曽我部の前にミルクセーキを、ヴェロニカの前には赤い液体で満たされたグラスを置いた。

「この店のヴァージン・マリーはとても美味しいわ」

ヴェロニカはグラスを曽我部の方に上げた。

「あなたの健康に」

曽我部も返した。

「二人の健康に」

ノンアルコール・カクテル同士の乾杯。曽我部は冷たく甘い液体を口に含んだ。上物だ。高級な味の直撃を受け、安物のコーヒーに馴染んだ舌が痙攣を起こしそうだった。

「――ジャパン社のデバッガーチームが意識不明に陥ったと報告があったわ」

と、ヴェロニカが言った。

「昨夜二十時二十五分、システム管理者を装ったセトのPCがデバッガーたちの職場に入り込み、業務中の彼らに攻撃を加えた。一人をのぞいて全員がこん睡状態となった、と」

曽我部はグラスを置いてヴェロニカを見た。

「デバッガーチームというのは、『碧衣の騎士団』?」

「そういうコードネームのチームだと聞いているわ」

「『光』を浴びたのですか」

「いいえ。鼠の大群に呑み込まれたそうよ」

曽我部は目を閉じた。鼠たちにとりつかれることがどういう事を示すのか、一度経験しているだけに全身に粟の生じるような思いがした。

だが同時にある疑問が曽我部の脳裏をよぎった。

「――しかし、そいつは妙ですね」

「何が?」

そう言ってからヴェロニカは赤い携帯端末を取り出した。それは小刻みに震えていたが、彼女はボタンを一度押してバイブを止め頬に当てた。

「今、大切な話をしている。待たせなさい」

携帯端末をテーブルに置くと、ヴェロニカは曽我部を見た。

「リュージ、何が妙なの?」

「御存じかどうか知りませんが、ジャパン社の『碧衣の騎士団』というのは、単なるデバッガー集団ではないんです」

と、曽我部は言った。

「彼らは仕様外の存在をどう扱うべきか心得たスペシャリストです。全員が高レベルの戦闘スキルを持っていて、日本サーバーの安定を脅かす外敵を排除するために日夜活動している。暇つぶしで手を出すには危険すぎる相手です」

何よりも『ヴォータンの槍』が怖い。旧き女神モルガナ・モード・ゴンから騎士団へ下賜された神器。その一撃が命中したならばシックザールPCであろうとただでは済まない。

確かに、瀬戸悠里の鼠の能力なら、騎士たちが何十人と束になったところで十中八九勝利を収めるだろう。だがそれは裏返していえば、十回のうち一、二回は負けるかも知れないという事だ。何かのはずみで槍が掠めればそれだけで有利不利はひっくり返る。

ヴェロニカの眉の間に美しいしわがさっと現れて消えた。

「セトには危険を冒してまで『碧衣の騎士団』を攻撃する特別な理由があった。そう言いたいの?」

「奴と会って話をしました」

曽我部は言った。

「根本の行動原理がいかれている以外は、極めて冷静で論理的という印象を受けました。その印象と、騎士団を全滅させる行為とが私の頭の中でどうも結びつかない。奴がそうしたのには何かしら理由があるのだと思います」

少し間を置いてから続けた。

「――一人をのぞいて、とおっしゃいましたね。その一人というのは?」

「配属されたばかりの新人よ。セトが現れる前にログアウトしたため、災難を逃れた」

「その人から話を聞きたいですね」

「そんなに重要なの? 『ユーリ・カジンスキーは尋常ではない』の一言で済むことではなくて?」

「悩みの種です」

と、曽我部は言って、ミルクセーキをもう一口飲んだ。やはり極上だ。

「何が重要で何がそうでないか、いつもそれがわからない。気になった事はとりあえず総当たりするしかない」

ヴェロニカはうなずいた。

「いいでしょう。あなたがそのデバッガーと直接会えるように手配しておくわ」

「そうしてもらえると助かります」

「もう一つ、助けになる話があるわ。あなたの報告書をサンディエゴに送って幹部会の審議にかけた。結果、鼠の駆除に関して『援軍』を動かすことが決まった」

「援軍?」

「『ソフィア隊』が出る」

と、ヴェロニカは言った。

「あなたの負担はかなりの部分が軽減されると思うわ」

「なるほど、それはそうかも。あー、確かに。なるほど」

曽我部はうなずいた。

「でもひとつ確認しておきたいのですが、ソフィアタイとは何ですか?」

「ソフィアを知らない? 日本でもとっくにダウンロード販売されているはずよ」

ヴェロニカの口ぶりで曽我部は相手の言っていることを理解した。

商品名「Sophia System Security」、通称SSSバージョン。二年ほど前に販売開始されたコンピュータ・ウィルス駆除ソフトだ。

「……市販のアンチウィルスソフトが瀬戸悠里の鼠に通用するとは到底思えませんが」

「ソフィア隊と、一般に流通しているソフィアは少し違う。ソフィア隊はオートではなく、適性あるプレイヤーによって操作されるの。その点ではあなたや瀬戸のシックザールPCと似ていると言える」

ヴェロニカは赤い携帯端末を取り上げると慣れた指さばきで操作した。

「最新鋭のアンチウィルス性能を持ち、ウィルス相手の戦いに限って言えば、おそらく無敵よ。詳しいことは、本人に直接会ってその目で確かめるといい」

曽我部の懐の携帯端末がメールの着信音を発した。

「今、『ゲスト・キー』を送った。ギルドの名前は『ALGOS(アルゴス)』。ソフィア隊に会ったならそれを見せなさい」

そう言ってヴェロニカは携帯端末をスーツの内ポケットにしまった。

「身分証代わりになるわ。次にログインするのはいつ?」

「今夜六時、マク・アヌから入る予定です」

「では、そのように伝えましょう」

曽我部はかぶりを振ってミルクセーキのグラスを手に取った。

「――やれやれ。そんな素敵な隠し球があったのなら、さっさと投げてほしかったですね。鼠とタップダンスを踊らなくてすんだかも知れない」

「まだ実験段階なのよ。それに、操縦者の人格に難がある」

ヴェロニカはさらりと言った。

「説得するのに予想以上に手間どってしまった。でも、とにかく、最終的にはこちらの訴えを取り消すことで取引に同意させた」

曽我部はヴェロニカの説明を聞きながらグラスを口に運ぼうとしたが、思い直してテーブルに戻した。

「よくわからないな。今朝飲んだコーヒーの量が足りなかったのか、それともここのミルクセーキが美味いので夢見心地になってるのかも。今、少しばかり不穏な意味の言葉が聞こえましたよ」

「ソフィア隊の操縦者もクラッカーなの。セトと同じね」

曽我部は二の句が継げなかった。

「今年の春にサンディエゴ社へハッキングを仕掛けてきた。セトの蓄電でデリケートになっていた保安部が即座に逆ハッキングして場所を特定し、警察に通報して捕まえさせた。だから、ハッカーとしての腕は大したものではないわ。だけど、ソフィア隊の操縦に関しては見事な適性を示した。それで今回の取引を持ちかけた」

「拘留中の人間に試験を行った?」

「サイバーコネクトにはその類のつてが山ほどある」

「なるほど」

曽我部はうなずいてみせた。

「まったく御社の人材発掘術には圧倒されっぱなしですよ」

「実力は全てにおいて優先される。鉄則よ」

ジャズサックスが終わった。束の間、店内は静けさに満たされた。カウンターの奥でバーテンダーがタンブラーを拭くかすかな音が聞こえた。

「さて――」

ヴェロニカはおもむろに曽我部の方へ顔を近づけて囁いた。パイプを吸っていないのにあの甘い煙草の息が匂ってきた。

「それでは本題に入りましょうか」

曽我部は眉をひそめた。

「まだ本題ではなかったのですか」

「文学的な話はこれから。あなたのプロフィールを調べ直したの。ネットワークトラブル・コンサルタントではなく、精神科医、医療技術開発者、リアルデジタライズの専門家としてのリュージ・ソガベをね」

ハーツフィールドがダミアの声で低く歌い始めた。

「知るほどに興味が湧いてきたわ。どうしてジャパン社を辞めたの?」

「野球選手になる夢をあきらめきれなかったんです」

曽我部ははにかんだ表情を浮かべてみせた。

「年齢的にそろそろラストチャンスでしたから」

「多少偏屈なところがあるにせよ」

ヴェロニカは冷たく微笑んだ。

「あなたのような唯一無二の人材をジャパン社が手放したことに驚くわ。これからどうするつもり?」

「おっしゃっていることの意味がわかりかねます」

「セトの件が終わった後のこと。まさか、この先もずっと探偵のまねごとを続けるつもりではないでしょう」

「あー、そうですねぇ。実は、新しく起業しようかなーと思ってるところでして。青山あたりにお洒落なカフェでも開こうかと。豊かな人生のために」

「あなたはリアルデジタライズの研究に戻るべきだわ。あなたのような人間は研究をやめてはいけない」

ヴェロニカは曽我部の目をのぞきこむようにした。

「サンディエゴ社で働いてみる気は?」

曽我部は軽く顔を引いた。

「驚いたな。瀬戸悠里の後釜にでもするつもりですか?」

「私は事業にとって最善のことをするようにしている。仮に誰かを排除することが最善なら、排除する。取引するのが一番いいのなら、取引する。引き抜くべきなら、当然引き抜く」

「当を得た経営理念ですね」

「――私は、ハロルドと一緒に働いたことがある」

と、ヴェロニカは言った。

「『The World』の創造者、あのハロルド・ヒューイックとね。サンディエゴのCC社ができたばかりの頃、ALTIMIT社からの紹介で彼が『fragment』のプレゼンにやってきた。その企画が採用されて、一年ほど、私は彼と机を並べて仕事した。彼から『fragment』を引き継ぐために。当時の私はプログラマーとしての自負心に満ちていた。『ALTIMIT OS』の開発に携わった者としての誇りがあった。でも、そんなものは彼の作品を目の当たりにして吹き飛んだわ。天才とは彼のような人間のことを言うのだと思った。私は彼をCC社に留めたかった……」

ダミアが死んだ恋人のことを歌い続けている。

「できなかった」

ヴェロニカは左手を伸ばしてヴァージン・マリーのグラスをとり上げた。

「すでに彼の心は別のものにとらわれてしまっていたから」

曽我部に顔を向けた。

「才能のある人間とは得難いものだという教訓を学んだわ……」

整った唇に蠱惑的な笑みが浮かび、曽我部を見たままカクテルを飲んだ。

「私は才能のある人間が好きよ。だから、あなたのことも好きなの」

「それはどうも」

「――けれど、いかなる理由であれ、己の研究を捨てたことに関しては感心できない」

ヴェロニカの笑みが現れたときと同じ速度で消えた。

「あなたは自分の研究を捨てた。リアルデジタライズの行きつく果てには救いがない、と考えて。報告書にあったセトの言葉を借りるなら、『踏みとどまった』。その判断は賞賛に値するわ。でも、他に選択肢はなかったの?」

ヴェロニカは右手を顎に当てて身を起こし、脚を組んだ。彼女のような人間がそういうポーズをとると美貌がさらに際立つ。見る者を圧倒させる女帝然とした美しさ。

「一度完成したテクノロジーはもう消えない。それはリアルデジタライズだろうが『The World』そのものだろうが同じこと。世の中に現れてしまったテクノロジーは前進するしかないのよ。トラブルが起こることを防げないのなら、我々が次に考えるべきことは、それをどうコントロールするか。一番良くないのは、解決を望みながら考えないこと。何もかも放り出して逃げることよ」

さらに付け加えて言った。

「自分の研究を完全なものにしたいと思わない? サンディエゴ社に来てくれるのなら、あなたのために最高の環境を用意するわ」

曽我部はグラスの残りを飲み干した。氷が軽やかな音を立てた。上等なミルクセーキは最後の一滴までも美味しい。カウンターに向かって目配せすると、バーテンダーがすぐにやってきた。

「およびでしょうか」

「ご馳走様。勘定をお願いします。一緒で」

「かしこまりました」

「こんなにうまいミルクセーキは初めてです」

「ありがとうございます」

バーテンダーが去ると、曽我部はヴェロニカの方に向き直った。

「私が払うわ」

「とんでもない。美女と差し向かいでおいしいカクテルを飲んで、ためになる素敵な話を聞いた上にお金まで出してもらったら罰が当たりますよ」

曽我部は言った。

「あー、目下のところ、鼠の相手をするのに忙しい。いやほんと、猫の手も借りたいくらいでして。今は次の一手を考えるのがやっとの状態なんです。こいつを解決しないことには、先のことなんて想像もできません」

ヴェロニカは射るような目で曽我部を見た。

「そう」

冷たい声で言うと彼女は足を組み変えた。

「それで、あなたの次の一手は?」

「立ち上がろうとしたところですよ」

バーテンダーがやってきて曽我部の前に勘定書きをそっと置いた。

曽我部はそれを手に取って額を確認した。

「それじゃ、ベインさん。仕事が控えているので失礼します」

立ち上がってもう一度額を見た。

さっそく罰が当たったようだった。

「――リュージ」

ドアの前でヴェロニカに呼び止められた。

曽我部は振り返った。

ボックス席のヴェロニカは巣穴でとぐろを巻く美しい白蛇を思わせた。

「まだ断られてはいない、と考えていいのかしら?」

「ご依頼の件を片づけます」

艶やかな笑みが浮かび上がった。

「良い報告を待っているわ」

(続く)

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