3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

26 プルートアゲイン

あの愚かな秋を忘れることなどできない。二〇一〇年。


ALTIMIT OSなんか糞(シャイセ)さ。

その年の十月にさしかかる頃には、ほんの少し前までネットワークを賛美していた人々の間でこんな声が囁かれるようになった。無理もなかった。大規模な通信事故が国内外を問わず頻発していた。電話回線の不通。株式市場の停止。列車のダイヤの乱れ。停電。ALTIMIT のセキュリティはザル以下だよ。鯨でさえも易々と通してしまうようなシロモノなんだから。

反対にあくまでネットワークの素晴らしさを説き続ける者たちもいた。

冥王はすでに封印されており、我々は聖母の祝福を受ける身なのだ。ネットワークの恩恵を享受せよ。聖母を信じよ。自ら暗黒の時代に逆戻りする愚は避けなければならない。

二つの派は時にはリアルで時にはネットで激論を交わした。他国と同様にこの問題はやがて政治上の大きな論争へと発展していった。すなわちネット化を推進し続けるか否か。

だが曽我部の在籍するミュンヘン大学医学部付属精神病態医学研究所のナイマン教室、つまりマフレト・ナイマン教授の主催する精神・神経病理研究室はそれらの騒動とはまるで無縁だった。教授の方針として教室内にはコンピュータが導入されていなかったからだ。

それは世情を慮ったものではなく、単に教授の性格、極度のコンピュータ嫌いによるものだった。

その方針はネット不安定の時代においてそれなりにメリットもなくはないと言えたが、やはりデメリットの方が圧倒的に大きかった。

例えばカルテの情報整理を命じられた時には学生たちはまるまる一ヶ月倉庫に詰めなければならなかった。

業務用の巨大なクリップでカルテの束を作りながら曽我部の友人がこぼしたものだ。

全く嫌になるよ。俺たちゃ、この二十一世紀にクリックじゃなくてクリップして調べ物してんだからなあ。

うんざりした様子で部屋の隅を指さして、見ろよ、本物のバグがいやがる。

教授はポーランド出身で、訛りはあるが文法的には間違いのないドイツ語を話した。

最初の講義で彼は生徒たちを見回しながら言った。

あなた方の仕事は、患者に対して神託のように指示を与えることでは決してない。精神病において快刀乱麻の処方箋など存在しない。あなた方は患者自身に気付かせるための存在です。本質に触れず、遠ざからず、患者と関わり、解決方法を患者自らが悟るように誘導しなければなりません。

そのためにどうすればいいのでしょうか? 一人の生徒がたずねた。

何もしないかのように何かをしなさい。

具体的には何を?

二つあります、教授は答えた。

常に疑うこと。そして、常に探ること。これが精神科医の使命です。


大学の講義が終わると、曽我部は下宿への帰り道をぶらぶら歩きながら古本屋を冷やかしカフェに寄るのを日課としていた。この街ではうまいコーヒーを一杯頼んだだけで邪魔されることなく本を読んでいられる。

散策にはカヤを伴うときもあった。

毎週金曜日に彼女はミュンヘン大学の精神医療センターへ通っていた。

カヤが来る日には曽我部は帰りの時間をうまく調節し、受診を終えたばかりの彼女とセンター前の小道で偶然を装いそれとなく出会えるように教室を辞するのが常だった。

やあ、カヤ。来てたんだ。気付かなかったよ。

リュージ。どうしたの。

うん。教授に急ぎの用事があるんだけど、つかまんなくてねぇ。どうも困ったなあ。

ナイマン先生なら、さっき二階の廊下で見たわ。

違うんだ。用があるのは別の教授だよ。カヤの知らない人さ。たぶん。

一緒に探してあげようか?

いいよ、明日にするよ。よく考えたらそんな緊急でもなかった。あー、ところでカフェ寄ってく?

カヤと一緒に過ごす時間は例えようもなく楽しかった。彼女と差し向かいに飲むコーヒーの美味さは格別だった。さまざまな事を話した。最近の出来事。友人たちのこと。隣人たちのこと。昨日見たテレビ。読んだ本。趣味。故郷。

今にして思えばそれは完全な一目惚れだったのだ。

昨年、春の公園で初めてカヤと出会ったその時から曽我部は否応もなく彼女に惹かれていく自分を感じた。

カヤの曽我部に対する態度には妹が兄に接するような深い親愛の情があった。

彼女と一緒にいると、曽我部は心の底からゆったりとくつろぎ、本来の生地のままの自分を偽ることなくさらけ出すことができた。

だがその一方で曽我部は彼女の中に自分にはうかがい知ることのできない不可解な『壁』が存在するのを感じてもいた。

カヤは思慮深く、知的で、誰とでもすぐ仲良くなれる天真爛漫さを備えていた。

しかしその内面には相手を拒絶する強靭な壁が備わっていて、それが彼女の魂の大切な部分を覆い尽くしてしまっている、そんな感じだった。

それは壁としか表現できない性質のものだった。

どんなに彼女と打ち解け、気安く言葉を交わしても、いや、親しくなればなるほど、カヤの壁は曽我部の前に執拗に立ちはだかり、最後の最後のところで、どこかとりつくしまもない、よそよそしい印象を与えてくるのだ。


曽我部は下宿の大家であるリチャード・フォン・ヴァイス氏にカヤの病気についてたずねてみたことがある。

ヴァイス氏は伯爵の称号を持つ貴族の末裔で、ドイツ帝国の権勢盛んな頃に数々の勲功を立てた名家の直系七代目の当主とのことだった。ハンブルグの近郊には先祖伝来の古城(シュロス)を持っていて、世が世なら召使たちにかしずかれて暮らす身分なのだが、時代の流れには逆らえず、今はシュヴァービングの商社に勤めるビジネスマンとなっている。

七月下旬、初夏の黄昏。カヤと一緒に暮らすようになって間もない頃。

夕食後、片付けのためにヴァイス夫人によって男どもが部屋の外へ追い出された時、曽我部は彼と一緒にテラス・ポーチに出た。

カヤはヴァイス夫婦の娘の世話をするために居間の方へ行ったらしかった。リーリエ・ヴァイスはこの年の春に生まれたばかりだった。

テラス・ポーチからはヴァイス家の広々とした敷地を見渡すことができた。青い芝生に散らすようにして季節の百合が美しく彩られていた。

カヤの病気について知りたい? 彼は葉巻の吸い口をカッターで丁寧に切り取りながら言った。

ええ。ご存知のことを教えていただきたいんです。曽我部は言った。

カヤの壁の原因が彼女の病気にあるということは容易に想像できることだ。彼女の病気について知ることは、その壁を乗り越えることにつながるかも知れない。

それはまたどうして?

あー、それは、ですね。えーと。

当然の疑問を言われて曽我部は言葉に窮した。第三者に対して今の自分の気持ちをうまく説明するすべを曽我部は用意していなかった。

私はカヤの保護者だ。彼女のプライバシーに関することはむやみに話せないよ。穏やかだが有無を言わせない口調でヴァイス氏は言った。それは微妙な事柄だからね。

そうですか……ええ、確かにそうですね。

どうしても知りたいのなら、彼女に直接聞きなさい。話すのが嫌ならカヤも断るだろう。そうでなければ教えてくれるよ。

それでその場は終わりとなってしまったが、むろん本人に面と向かって聞けるようなことではなかった。仮に彼女に質問したとして、彼女もまたヴァイス氏のように返してくるだろう。

なぜ? なぜそんなことを聞きたがるのか?

それに答えるにはカヤへの想いを打ち明けなければならない。

曽我部が彼女に対してプロポーズあるいはそれに近い行為をし、その結果、カヤに受け入れられなかったとしたら、今のヴァイス家での生活は全て終わりとなるだろう。金曜日の語り合いは永久になくなってしまうだろう。

カヤがやってきてからここでの暮らしは以前にも増して楽しいものとなっていたから、そのような事態は想像するだに恐ろしかった。

だから曽我部はそれ以上の幸福を追求しないとひそかに決意していた。

しかし、ある時、些細な事柄がきっかけで曽我部は戒めをあっさり破ってしまった。

それはほとんど偶然の機会だった。


十月祭(オクトーバー・フェスト)の最終日、曽我部はカヤと一緒にミュンヘン中央駅の南側にあるテレージエン・ヴィーゼを適当に回ると、早々に家に引き揚げた。

ヴァイス夫妻は城の維持管理について不動産屋と話し合うため、リーリエを連れてハンブルグへ出かけており留守だった。

二人はテラス・ポーチに向かい合って座り、屋台で買ったビールやカレー・ヴルストやその他のつまみをやりながらとりとめのない話をした。庭のどこかでコオロギがおかしな声で鳴いていた。

日本人って虫の音を鑑賞するんでしょ? どうかな、聞くとはなしに聞くけど、鑑賞って大げさな言葉でいうのは少し違うような気がする。でもメロディとして聞こえる? まあね。うらやましい。うらやましい? ええ、私にわからない事を楽しめるのはうらやましいと思うわ……

たわいのない話をしているうちに、何かのはずみで曽我部とカヤの手がテーブルの上でぶつかった。そして曽我部はカヤの手を握っていた。

カヤはその後すぐに手を引っ込めた。

どうして離すんだ、曽我部はたずねた。

ソーセージの脂でべとべとしてるから、カヤは的確に答えた。

ごめん、曽我部はハンカチで指を拭いた。

そして何を考えていたのか自分でもよくわからないのだが、もう一度手を差し出した。

彼女はその手を握らなかった。

曽我部は手を戻した。

俺が君を好きだってこと、わかってないのかねぇ。

気付いた時にはすでに喋っていた。ビールを飲み過ぎたせいかも知れない。

カヤはつまみのピーナッツを食べると、殻を投げて曽我部にぶつけた。

嫌な冗談。

冗談なんかじゃないさ。

ここまで来るともう後戻りはできない。つい数秒前までは今この場で打ち明けることなど夢にも思っていなかった事柄を曽我部は口にした。

君を愛してる、カヤ。世界中の誰よりも君と結婚したいんだ。

いつの間にかコオロギは鳴くのをやめていた。

カヤは一分間ほどもうつむいて黙っていたが、やがて顔を上げた。

その眼を見た時、曽我部は自分の血が音を立てて薄くなっていくのを感じた。あの拒絶の壁が彼女の内側から起き上がりつつあるのを認めたからだ。

リュージ、私たちは今までのままでいなきゃ駄目よ。

なぜ。

私は。カヤは目を伏せた。病気なのよ。

知ってる。いやもちろん詳しくは知らないけどそれが何だって言うんだ。今はいい薬だってあるし問題は何もないよ。

いいえ。あなたは軽く考えてる。あなたは父の事を知らない。

君の父さんがどうしたって。

思いがけない言葉に曽我部は戸惑った。カヤが自分の父親のことを口にするのは初めてのことだった。

父は自殺したの、カヤは言った。

強い風が吹いて庭の草花をしばし揺らした。

その後、重苦しい沈黙が訪れた。

どうしてコオロギが鳴かないんだ、曽我部は思った。さっきまであんなにひっきりなしに鳴いていたのに。

やがてカヤが言った。

父は自分で死を選んだの。夢がもたらす痛みに耐えられなくなって。

夢? 曽我部は聞き返した。自分の声ではないようだった。

最初はただの悪夢だったわ。車にひかれたり、誰かに襲われたりする夢。目が覚めたら笑い話にできるような。

でもそうじゃなかった。夢はどんどんひどくなった。

現実と夢の区別がつかなくなって父はあっという間に衰弱していったわ。夢で怪我した箇所が実際にいつまでも傷むって言ってた。

私の症状は、父が患った最初の頃と全く同じなの。少しずつ進行していって、最後には耐えられないほどの激痛を伴うようになる。

今はまだ薬で抑えていられる。父の時もそうだった。

でも、それは見せかけなの。問題ないように見えるだけ。

私も私の夢に殺されるわ。あと数年のうちに。父と同じように。

カヤはこれだけのことを、感情を交えない、冷たい口調で説明した。

この病気は遺伝するのよ、きっと。だから、私は結婚できない。ごめんなさい。

彼女は立ち上がると、足早に去っていった。

曽我部はその後ろ姿を黙って見送った。

カヤが見えなくなると、抑えた息をゆっくりと吐き出した。唇にひっかかってとまるほどゆっくりと。

そんな病気があるのだろうか、曽我部は思った。

だが現にカヤはミュンヘン大学の精神医療センターに通い続けている。センターは斯界で最高の治療施設であり研究機関だ。誤診はまずあり得ない。

考え込んでいるうちに、散歩の時間になった。

曽我部はグリットを連れて再び外へ出かけた。

空は雨もよいになっていた。構わずに歩き続けた。普段通りのコースを回り、英国庭園でベンチに腰掛けていると、果たして雨が降り始めた。こぬか雨だった。

曽我部は濡れられるだけ濡れていた。

グリットは動じることなくさっさとベンチの下に潜り込んで寝そべった。

ふと曽我部はこの場所で初めてカヤと出会ったのだということを思い出した。

あの時、公園は生命力に満ち満ちていた。太陽は輝き、空は猛々しいほどの青一色だった。

今、当時の面影はなく、憂鬱な灰色で何もかも覆われてしまっている。寂寥感のある詩的な景色。

しかし詩的であるということはつらいことだ。

不意にグリットが、わふ、と咳払いのようにして吠えた。

物思いの淵に肩まで浸かっていた曽我部はその声で我に返った。

その通りだ、相棒。曽我部は言った。君の言う通りだよ。


翌日の月曜日、講義が終わると、曽我部はすぐに研究室に行って教授を捕まえた。

その頃にはミンネザングの復刻ブームなどはとうの昔に過ぎ去っていたが、教授は相変わらず甘い恋歌のレコードをかけ続けていた。壁がどんなに高くても。どんなに厚くても。僕の愛はすべてを飛び越える。鳥のように。君のもとへ。どこまでもどこまでも。

ナイマン先生、今から倉庫の整理をしたいのですがよろしいでしょうか、曽我部は言った。

それから十一日間、曽我部は下宿に戻らず、講義にも参加せず、倉庫にこもってひたすらカルテをめくり続けた。特定の症例を見つけてはメモをとり続けた。

十二日目は第三週の金曜日だった。曽我部は教授にカルテの分類がひとまず完了したことを報告すると、カヤが受診のためにやってくるのを待った。

カヤは来なかった。

夕刻、曽我部は教室を出ると、古本屋にもカフェにも目をくれることなく一直線に帰宅した。

早くも日が落ちかけていた。冬が足早に近づきつつあった。この国では十月祭が終わると、それが合図のようになって急速に木枯らしが吹き始め、厳しい冬になっていく。

下宿に戻ると、居間でリーリエをあやしていたヴァイス夫人が目を丸くして言った。

まあ、リュージ。あなたって人は、今までどこに隠れてたの?

石の下です、曽我部は笑って言ったが、実はもう緊張していて口の中が乾き始めていた。カヤはどちらに?

あの子の部屋よ。ヴァイス夫人は教えてくれた。

カヤったら、なんだか具合が悪いみたいなの。十月祭が終わってからずっとふせってるのよ。

曽我部はカヤの部屋の前に行くと、ドアをノックした。

やがてカヤが顔を出した。すでに周囲は薄暗くなっており、カヤの表情は判別しづらかったが、曽我部を見て小さく息を飲んだのは気配で伝わってきた。

カヤ、聞いてくれ。君の病気について調べてきたんだよ。曽我部は言った。

もちろん俺は詳しいことは何も知らない。勉強中の学生に過ぎない。

だから、この前の君の説明を頼りに、過去に大学病院が取り扱った症例で似ているものがないか調べたんだ。

いろいろな病気が見つかったよ。ナルコレプシー、疼痛障害、繊維筋痛症、中枢性過敏症候群。

君は見たことないから実感できないだろうけど、あのカルテの山を掘り起こすのはなかなか骨が折れたぜ。

曽我部は具体的な病名を次々に挙げて詳細に説明していった。

つまり結論は、曽我部は一呼吸置いて言った。

君の病気は『遺伝しない』。そもそも精神病はごく特殊なものを除いて遺伝は無関係なんだ。むしろ生活環境の影響の方が大きい。遺伝については君の思い込みに過ぎない。

それに、例え遺伝がどうとか症状がどうとか、そういう話になったとしても、この俺がなんとかしてみせる。だから今まで通りがいいだなんて言わないでくれ。

それとも、病気云々は隠れ蓑で単に俺のことが気にくわないというのなら、それははっきり言ってほしい。いや、違う。俺はそんなことを伝えたいんじゃないんだ。

曽我部はカヤに向かって一歩踏み出した。

もう一度言うよ、カヤ。君を愛してる。世界中の誰よりも君と結婚したいんだ。

そう言うと、曽我部は口を閉じて相手の反応を待った。

不安な時間が過ぎた。十数秒程度の時間が曽我部には永遠のように感じられた。

カヤは曽我部と目を合わせ、彼の頬にそっと手を触れた。

そして、唇に軽くキスをした。

曽我部はカヤを引き寄せ、彼女の体を抱きしめた。鎖骨のあたりに彼女の顔があった。

馬鹿よ、あなたは。小さな声でカヤは言った。

でも誠実だ、曽我部も小さな声で答えた。賢くて不誠実な男より断然いいよ。

変な理屈ね、カヤは言った。

彼女の体は震えていた。声を殺して泣いていた。涙がこぼれ落ちているのがわかった。

君が見えないよ、カヤ。曽我部は囁いた。


二〇一〇年十二月二十四日、冥王再臨(プルートアゲイン)の最後の日。

曽我部隆二とカヤ・フレーベは婚姻届を提出した。

(続く)

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