3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

23 過去からの声

“湖の中、沈黙へと還る。無が残されるものの一切である。”

曽我部はパームパソコンの画面上に表示されたテキストを眺めた。

なぜかはわからないが、この不意のメッセージには、ささくれのような不快感、とらえどころのない居心地の悪さのようなものがあった。

誰が書き込んだのか。まず考えられるのはガイストの名を騙っていた瀬戸悠里だ。だが今さら瀬戸がスレッド経由でメッセージを寄こしてくる理由が思いつかない。

あるいは、無関係の第三者、興味本位でスレッドをのぞいた暇人のいたずらか。それが最も無難でありそうなことのように感じられた。そう思おうとしてみた。あまりうまくいかなかった。

曽我部は掲示板を閉じた。

まあいいだろう。結論の出しようのない問題に直面した時、もっとも簡単な解決方法は誰か他人のせいにすることだ。曽我部は瀬戸悠里の仕業であると考えることにした。

諸々やってくれたじゃないか、ドブ野郎――。曽我部は時折断続的にうずく全身の痛みに顔をしかめながら思った。

こいつは借りだ。いずれまとめて返す。

午後からは報告書の作成に取り組んだ。

普段の倍近い時間を費やし、書面を八割がた仕上げたところで気力が続かなくなったのでやめにした。

四時までにはまだ少し間があった。

ソファの背もたれに身を投げ出し、眼鏡を外して眼を閉じた。昨日も今日も働き過ぎた。せめてデビッドが来るまでの間、このソファに寝そべってゆったりと惰眠を貪りたい。叶わぬ願いだった。うとうとしかけたところで携帯端末が鳴った。リーリエからだった。

「起きてた?」

「もうばっちり起きてたよ」

と、曽我部は快活に答えた。

「どうした?」

「――あのね。今、大通りなんだけど。怪しい人がいるの」

押し殺した声で喋っている。送話口を手でさえぎっているようだ。

「デビッドって名前の人。いきなり話しかけてきて、リュージの知り合いだから家に連れてけって言うの。心当たり、ある?」

不安げな問いかけに重なって、くしゃみが聞こえた。

「あるよ。安心しろ。その人は、あー。怪しくない」

曽我部は言った。

「今、一緒に仕事してる人だ。今日うちで話をすることになってるんだよ。大丈夫、連れて来てくれ」

「そうなの? 良かった」

リーリエの声は一転して明るくほっとしたものになった。

四時前にリーリエがデビッドと一緒に帰宅した。

「どうも、曽我部はん。お邪魔しま」

デビッドはサングラスを外し、にこやかに笑みを浮かべた。

「そこでリーリエさんと会いましてな。顔とお名前は知っとったんで、お願いして案内してもろたんですわ。礼儀正しい、しっかりしたお嬢さんですな」

デビッドに褒められリーリエは顔を赤くしてキッチンの方へ入っていった。

曽我部は相手をリビングに通した。

室内を見回してデビッドは意外そうに言った。

「きれいに片付いてますな。いや、失礼。こないだうかがった事務所の印象があったもんやから……」

「娘が掃除してくれますからね」

「事務所の方は」

「私の担当です」

そう答えるとデビッドは肯定とも否定ともとれる微妙な首の動かし方をした。

「しっかりしたお嬢さんですな」

と、もう一度言った。

リーリエがかしこまった様子で二人に茶を出し、盆をさげてリビングから出ていくと、デビッドは仮面を外すようにして愛想笑いを消した。

「体の具合はどないです」

「絶好調とは言えないですね」

と、曽我部は答えた。

「ですが、まあ大丈夫です。まだまだタップダンスだって踊れますよ」

「ユーリ・カジンスキー・セトと会うた時の状況を教えてもろてええですか」

曽我部は今朝、電話で伝えた事柄をもう一度、今度は詳細に話した。鼠たちの言い残した不吉な予告も伝えた。

「――実は、撤収指示が出ましてな」

説明を聞き終えると、デビッドは抑揚のない無表情な声で言った。

「NAB本部はネット側でセトを追跡することを断念しよった。腕っこきの調査員が十人以上、一瞬でやられてもうたんやから無理もないけどな。今後はネットの中ではなく、リアルでの捜査に注力するよう方針転換するいうてきた。私に、本国に戻ってリアルでセトを探せ、やと」

「では、帰国を?」

しばらくの間、デビッドは曾我部の問いには答えなかった。

「セト本人はアメリカから一歩も出てへん。国内のどこかに潜伏しとる。それは確かや」

そうつぶやいて曽我部を見返した。

「曽我部はんはセトの動きについてどない思いますか」

「どうとは?」

「セトは、なぜ北米サーバーではなく、日本サーバーで活動しているのか? ……ちうことです。おかしいと思いまへんか。鼠の散布が目的やいうんなら、北米サーバーの方がずっと規模が大きい。だいたい、そっちにアクセスする方が簡単や。奴は何か狙いがあって、わざわざ手間のかかる日本サーバーに入り込んどる。なんでか?」

曾我部は首を振った。

「さあ。見当もつきませんねぇ」

「こいつは勘やが、リアルだけに捜査を絞ってもうたら、NABは永久にセトを捉えられへんような気がしますねん」

「どうしてそう思うのです」

「ですから、ただの勘ですわ」

「あなたは勘だけで物事を判断するような方ではないと思っていましたが」

曽我部が言うと、デビッドの顔が一瞬だけ赤くなり、また元の青白い顔色に戻った。言葉に詰まった様子で顔をそむけると、窓の外を眺めるような姿勢でそのまましばらくじっとしていた。

が、不意に手をのばしてコップをとると茶を一気に飲み干した。

「私は、帰りまへん」

一呼吸置いてデビッドは言った。

「撤収指示なんぞくそくらえですわ。ガスや他の連中が回復する目途がつくまで、私はここに残ります」

決然とした口調だった。

「そのためには曽我部はん。あんたの力が絶対に必要や。あんたは昨日セトの襲撃を受けた。そして生還し、飛び降りず昏倒もせず今ここにおる。この件に関して、あんたは専門家で、私らはそうやなかった。残念なことやけどな」

デビッドは上着のポケットから携帯端末を取り出した。

「――私が思うに、あんたは鏡のような人間やね」

「よく言われますよ。それはつまり」

と、曽我部は頷いてみせた。

「きらきら輝いてるという意味でしょう?」

「全然ちゃいます」

デビッドは真顔のまま即座に否定した。にこりともしなかった。

「力で押すと力で返す。小細工すると、小細工で返してくる。あんたと本当に手を組むには、こちらも本当に手を差し出さなあかん」

デビッドは携帯端末を操作してボイスメモのアプリを呼び出すと、テーブルの上に置いて、曽我部の方にずいと押し出した。

「この音声ファイルを聞いてほしい。こいつの存在は、NABでもほんの一握りの人間しか知らん。外部の者に聞かせる場合には、本来やったら機密保持の宣誓をしてもらわなあかん類のもんや」

曾我部はデビッドの携帯端末を見た。一世代ほど古いタイプのようだった。よく使い込まれており、角の塗料がすり切れてはげ落ちかけていた。デビッドが物々しく声をひそめて語るほど何かが秘められているようにはとても見えなかった。

「なんだかよくわかりませんが。そいつを聞かせることの代償として、私に何かをさせるつもりならやめた方がいいですよ」

曽我部はやんわりと言った。

「そういうお膳立てはひっくり返したくなる性分でしてねぇ」

「やろね」

デビッドはあっさりと言った。

「せやから、これは雑談の延長や思うてください」

デビッドの人差し指が画面をタップした。

室内に静寂がおりてきた。しばらくの間、携帯端末からは何の音もしなかった。

だが、やがて男の声で喋り始めた。自信に満ちた、傲慢とも感じられる口調。かすかだがアクセントに外国語の訛りがあった。曾我部はその声が誰のものかすぐに分かった。

『……まず始めに、私が貴様にこの話をすることは、企業機密漏示罪にあたる。私の共犯者になりたくなければ、ファイルを即刻破棄したまえ』

無音。

『……結構。では、本題に入る。去年、つまり2020年のあの出来事、天城丈太郎が画策し、そのバックアップAIが実行に移した事件についてだ』

無音。

『あのとき、女神アウラの胸に抱かれた至福の時間を、私は生涯忘れないだろう。きめ細やかな瑞々しい電子が体内に充満し、すべての感覚を肩代わりしてくれるのを理解した。現実世界のあらゆる戒めから解放され、母なる存在に身を委ねる恍惚の中で私は悟った。アカシャ盤により女神を支配しようとする行為の愚かさを』

無音。

『だが、そのことに未だに気づかぬ者たちがいる』

無音。

『自らの矮小さを知らず、大いなるアウラに挑もうとする蒙昧な輩たち。彼らは『アカシャ盤』の破片をかき集め、女神の残滓データを抽出しようとしている。その行為が何を意味するか、この世界に何をもたらすか、連中には理解できていないのだ』

無音。

『残念ながら、私は本件に関わる資格を失ってしまった。今の立場では、この件について、これ以上踏み込むことができない。しかし、貴様なら、あるいは最悪の事態を回避することができるかもしれない』

無音。

『これはCC社の元代表取締役ジーニアスではなく、ドゥルガ・フィダ・シャルマー個人の依頼と考えてほしい』

無音。

『頼む。CC社の暴走を、アウラへの冒涜を止めてくれ』

無音。

そこで静寂は長く続いた。もう終わりかと思ったが、まだ先があった。声は言った。

『……ソガベ。君に後を託す……』

(続く)

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