3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

22 メッセージ

電脳世界から復帰してすぐに鼠たちに噛まれた個所が熱を帯びてきた。熱はいつまでたってもおさまる気配を見せず、やがてめまいと痺れと震えの症状が現れ始めた。VRスキャナの使用に伴う中度副作用。電脳世界でこうむった仕様外のダメージが『フリューゲル』の許容範囲を大きく超えてリアル側へ溢れてきたのだ。

ログインしていた時間はたかだか一時間にも満たない。それだけの間に曽我部は全身をばらばらにされたような気がした。

夜遅くまで事務所で休み回復を図った。しかし九時を過ぎても車を運転できる状態にはほど遠かった。むしろ時間が経てば経つほど一層ひどくなっていく、そんな予感があった。

もし俺が主治医なら、と曽我部は思った。こうなる前にVRスキャナの使用を禁止していたのだが。

仕方なくタクシーに乗って這うようにして帰った。途中薬局に寄って筋肉弛緩剤と鎮痛剤を購入し、二錠ずつ飲んでベッドに入った。

翌日、日曜の朝七時頃、肉が弾け散るような激痛のために目が覚めた。薬によって一時的にベッドの外へ押し出されていた感覚が朝の光とともに曽我部の体へ舞い戻ってきたのだ。熱したフライパンの上に水滴を落としたようなものだった。

寝室のドアがノックされた。

「朝ごはん、できたよー」

リーリエの声がした。

曽我部は唇を噛んで、うめき声をもらさないように努めた。

「リュージ?」

苦労して息を吸い込み、吐き、もう一度吸った。

「俺はもうダメだ。頭が割れそうだ」

わざとだみ声で返事をしたが、それは自分でも思いがけないほどひび割れた声になった。

「もー。お酒飲み過ぎたの?」

ドアの向こうでそう言って、リーリエの気配が遠ざかっていった。

曽我部はベッドから降りようとした。最初の一分間はまったく身動きができなかった。ようやく上体を起こし、そろえた両足を振り回して床におろした。それだけの努力で息が詰まり、額に汗をかいていた。

体の中の死にかけている部分に余計な振動を与えたくなかった。そのままじっとして、神経痛と、筋肉痛と、疲労と、吐き気と、悪寒と、こむら返りを相手に、それぞれ折り合いがつくのを待った。

少しだけ楽になったので、サイドテーブルに置いた錠剤の瓶を取り二錠ずつ飲んだ。市販薬の効果はたかが知れているが、それでも飲まないよりはましだ。


またノックの音がした。

「ごはん、どうする? おじやにしようか?」

「いや、いい。昼まで寝るよ。昨日は働き過ぎたからな」

と、曽我部は言った。いつも通りの声を出すのがこんなに難しいとは思わなかった。

「じゃ、昼食は朝ので済ませてね。おやすみ」

曽我部は耳を澄まして、リーリエの足音が離れていくのを確認した。

それから苦労して再びベッドに身を横たえ、タオルケットをたぐり寄せた。

記憶がまだ新しいうちに昨日の出来事を簡単な書面にまとめておきたかったが、今の状態ではそれはエヴェレストの登頂を目指すよりも難しいように思えた。大きく息をついた。せめてこの瞬間、薬の効果を待つ間は平安と静けさに浸っていたい。無理のある願いだった。サイドテーブルの携帯端末が鳴った。デビッドからだった。

「朝早うすんまへん。今日の約束、少し後にずらしたいんやけどええやろか。大変なことが起きたもんで」

「もちろん構いませんよ」

曽我部はベッドの中で答えた。

「――大変なこと?」

「本部の連中ですわ」

デビッドの声が呆れと苛立ちのまじったものになった。

「勝手に人員を集めて、セトの捜索チームを作って、日本サーバーに送り込んできよった。ガスの穴埋めのつもりやったらしいけどな。前もって連絡せえっちゅうねん」

「それが大変なことなのですか?」

「全滅した」

と、デビッドは言った。

「ドル・ドナにログインして、点呼をとって、さあこれからって時に鼠の群れに襲われたんやと。浮足立って何もできんうちに光を喰らっておしまいや。全員病院送りになった」

曽我部は目を閉じた。そして言った。

「昨日のいつです?」

「午後二時半にログインしたと聞いとる」

曽我部がマク・アヌのカフェテラスに到着したのは昨日、三時過ぎだった。瀬戸悠里は己を追跡しようとするNAB職員たちを片付けた後で曽我部を出迎えたということになる。

「詳しいことはそちらで話しますわ。今日の四時、事務所にうかがわせてもらいます。ええですか?」

曽我部は逡巡した。今の自分は事務所に行けるかどうかも怪しかった。

「いや、私のマンションに来てください。場所はご存知ですか」

「知ってるけど――。どうかしはったんですか?」

その時になって初めてデビッドは曽我部の声音が普段と違うことに気付いたようだった。

マク・アヌでの出来事を簡単に話した。

「そらあかんわ。曽我部はん」

テビッドが苦い声で言った。

「なんでログインなんかしたん。たった一人で。危なすぎるやろ」

「マク・アヌの景観を楽しみたかったもので」

と、曽我部は答えた。

情報屋の存在を伏せているので、ログインした理由は説明できない。

デビッドは鼻を鳴らした。

「……まあ、ええわ。ほな、四時にそちらのマンションで」

電話は切れた。

曽我部はタオルケットの中で体をよじり、携帯端末をサイドテーブルに戻そうとした。しかし手を伸ばすつらさに耐えられず、枕元に落とした。

今のやりとりをしているうちに、全身の痛みと痺れがますますひどくなったようだった。

寝られないかもしれない、と思った。杞憂だった。薬のせいか症状のせいか。あるいはその両方か、曽我部はほとんど気を失うようにして再び眠りについた。


得体の知れない夢から眼が覚めると、時計の針は正午を回ったところだった。

全身が寝汗でぐっしょりと濡れていた。だが体の具合はかなり良くなっていた。朝と比べ、痛みが明らかに軽減している。

曽我部はのろのろと寝室から出た。

リーリエの姿はなかった。出かけているらしかった。

「『グリット』。リーリエは?」

リビングで尋ねると、伝言が再生された。

『遊びに行ってきます。夕方までには戻ります。洗濯物があったらまとめておいてね』

すまない、と曽我部は心の中で詫びた。

事務所には結構な量の汚れた衣服が置きっぱなしになっている。

作り置きの食事を電子レンジで温めて食べた。食欲はなかったが、むりやり口に押し込んだ。水に浸した紙粘土を咀嚼しているようだった。しかし頭を働かせるためには食べなければならない。

朝食兼昼食を終えると、筋肉弛緩剤と鎮痛剤を二錠ずつ飲んでバスルームに行った。

洗面所の鏡では、目に隈のある、覇気のない、ぼさぼさ髪の、青い顔をした男が曽我部を見返した。

「気にするな」

と、曽我部は自分に言い聞かせた。

「見た目ほどにはひどくない」

服を脱いでバスタブの中に入った。長い時間シャワーの下に立ち、熱い湯を背中や足に打たせた。やがて薬が効きはじめ、普段とさほど変わらない気分になってきた。

湯船につかり、頭と体を洗い、髯を剃り、服を着替えると、ようやく世知辛い世の中と向き合う用意が整った。

リビングのソファに座り、携帯端末とパームパソコンを展開させた。

『The World』の公式掲示板に飛ぶと、昨日の『モンスター街侵入』イベントの最中に通信障害が発生して参加者全員が強制切断されたことに関するお詫びが掲載されていた。

強制切断?

参加者たちと思しいプレイヤーたちの書き込みがいくつかあった。文句。罵倒。何の変哲もない、ネットゲームにまつわる一風景だ。だがそれはイベントが不意に断絶したことに対する怒りであって、ゲーム内でキルされたことによりリアルで何らかの被害をこうむったという類のものは一切なかった。皆、鼠にとりつかれたネズミモンスターの襲撃を単なるイベントだったと思い込んでいるようだ。彼らには疑う理由がないのだから当然と言えた。

曽我部は携帯端末からNABのサイトにアクセスし、ニュースページを目で追った。意識不明者が発生したという記述は見当たらなかった。少なくとも現時点では『鼠狩り』による犠牲者は表ざたにはなっていない。

曽我部はそのままページのスクロールを続け、ニュースをチェックしていった。

ヴェロニカ・ベインの来日について大々的に取り上げられていた。ニュースの中では彼女は昨日東京に到着したばかりという扱いになっている。その目的はまだ外部には明確に知らされておらずジャパン社に対する監査のためにやってきたとか、新商品の開発に向けて日本の工場を視察するためとか、さまざまな憶測がwebページ上でもっともらしく語られている。東京での宿泊先は伝統あるベイクトンホテル。こちらに半月ほど滞在する予定であるらしい、云々。

さすがVIP、注目の的だ。

画面をさらにスクロールさせていったが、その時、ふと何かが気になった。

何かが頭のすみをかじっている。何らかの考えが意識に潜り込もうとしている。不快な、いらだつような、もどかしい感覚。

画面を戻してまた最初から見直してみたが、琴線に触れているものの正体を突き止めることはできなかった。

何かがおかしい。しかし記事の中には異常と思える物はない。

曽我部は首を振った。

まあいい。何かがそこにあるとしたら、いずれわかるに違いない。その時まで頭の奥へ放り込んでおこう。

携帯端末を置き、パームパソコンに何気なく目を戻して、曽我部ははっとした。アイコンがポップアップしていた。曽我部が立てた公式掲示板のスレッドに新しい書き込みがあったという通知だ。

キーボードを操作してスレッドを呼び出した。


“宿命より奇術師へ。鼠の駆除について相談あり。連絡を乞う。メール可。”


これは二週間前、淀川清輝が死亡した後に曽我部が書き込んだものだ。その下に新たな一文が追加されている。


“奇術師より宿命へ。”


続くテキストはこう読めた。


“湖の中、沈黙へと還る。無が残されるものの一切である。”


(続く)

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