3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

21 青の季節

思い返すほどに過去は磨かれていく。望んでいようと望んでいまいと。だから胸の奥底にしまい込み、触れないようにしてきたのだった。次第に美しくなっていく過去に嫌悪を感じなくて済むように。罪悪感に悩まされることのないように。

プルートアゲインの一年前。引き裂かれた過去の向こう側。二〇〇九年。

地震の年だった。

デュイスブルクでマグニチュード3.3の揺れが発生し、十数年ぶりの大地震だと評判になった。日本人の曽我部にはその程度の揺れが『大』地震であるとは全く思われなかったが、この国の人々にとっては充分に驚天動地の出来事だったのだろう。

女子サッカーの年だった。

フィンランドで開催された欧州女子選手権でドイツ代表は強豪スウェーデンを接戦の末に1対0でくだし、五連覇の偉業を成し遂げた。決勝のハーフタイムで監督が選手たちに向かって発したとされる『実存的攻撃』という言葉は国内で流行語になった。

『THE WORLD』の年だった。

二〇〇七年発売後わずか半年で総売上数一〇〇〇万本の売り上げを記録したこの怪物ゲームは、その後もバージョンアップを重ねるごとに発売本数を伸ばしていた。世界はゲームによって一つになろうとしていた。そのように見えた。それは今から思えば単なる錯覚であり戯言に過ぎなかったのだが、当時の何割かの人々は本気でそう考えていたのだ。

ミンネザング再評価の年だった。

古い恋歌がブームとなり、そこかしこで絶えず流されるようになった。曽我部の通う研究室も例外ではなく、教授の私物である骨董品の如きレコードプレーヤーが連日甘ったるいメロディを鳴り響かせ職員たちを辟易とさせた。この身から黒い炎がくすぶるから。僕の思いを焦がすから。二羽の鳥は寄り添って。どこまでもどこまでも。どこまでもどこまでも。どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも……

カヤと初めて出会った年だった。

あの嘘のような昼下がり、ドイツでは滅多にお目にかかれないほどの比類なき透明な青空のもと、曽我部は下宿先の犬を連れて英国庭園のベンチに腰かけていた。風がシュヴァービングの街路樹を静かに揺さぶり、太陽が穏やかに輝いて芝生を照らしていた。

目の前には小川があった。生命に満ちたそのせせらぎを聞きながら何とはなしに精神の死という事柄について思いを巡らせていた。理由はわからない。

その時、強い風が吹き、茶色い丸いものが視界に飛び込んできて思索は破れた。水辺の手前に落ちたそれは麦わら帽子で、あと少しで船のように出航していきそうに見えた。

曽我部は犬の首筋を叩いて命じた。

よし、行け。とってこい。

だが犬は年経たグレート・デーン特有のどこか悲しそうな目つきで曽我部を見返すと、大きなあくびをしてうずくまった。

わかってるよ、言ってみただけ。

曽我部は立ち上がって歩いていき、帽子を拾い上げた。

その直後に、手提げ鞄を持った若い女が小走りに駆けてきた。

曽我部は帽子に付いた芝生を払って渡してやった。

ありがとう、彼女は礼を言って帽子を受け取った。そしてベンチに戻りかけた曽我部に遠慮がちに声をかけた。

あなたはこの辺りにお住まいの方ですか。道を教えていただきたいのですが。

その言葉には慣れぬ土地を旅する異邦人のようなぎこちなさがあった。観光客だろうか、と思った。

いいですよ、曽我部は気軽に言った。

女は地味な色合いのスカートとカーディガンを身に着けていた。落ち着いた物腰だったが、よく見るとその顔にはまだ少女のような幼さがあった。自分より一つか二つ年下であると曽我部は見当をつけた。

女は住所を告げた。

しかし彼女自身もよく理解できていないらしい単語と数字の羅列は、曽我部にはほとんど伝わってこなかった。

ここらは住所だけじゃわかりにくい。地図はありませんか。

彼女は鞄のポケットから携帯端末を取り出して地図を表示し、曽我部に渡した。

それからしばらくの間、曽我部は女から携帯端末の操作を聞き出したり地図と実際の方角を合わせたり住所を再確認したりして四苦八苦し、ようやく目的地とそのルートを導き出すことに成功した。

端末上に表示されたその建物の写真と名前を見て曽我部は驚いた。

なんだ。これは俺の下宿だ。

その時になって、曽我部は半月ほど前の夕食の席上で聞かされたことを稲妻のように思い出した。

遠縁の女の子を引き取ることにした、と大家は言ったのだ。

アメリカに渡って商売を営んでいた親族に不幸があり、一人だけ残された娘がいる。行き場を失ってかわいそうな身の上だし、少し健康を損ねているらしい。こちらで療養させるから、そのつもりでいてくれ。まあ気が向いたらカフェの一つにでも案内してやってくれないか。

奇遇ですね、曽我部は携帯端末を女に返して言った。私はヴァイスさんのお世話になっている者です。あなたのことは聞いてますよ。あー……カヨ・フレーベさんでしょう?

カヤ、と彼女は訂正してほっそりした手を差し出した。カヤ・フレーベです。

その手をとって軽く握り返した。羽毛のように軽かった。風が吹くとどこかに飛んでいってしまいそうな、ちょっとでも力を込めるとつぶれてしまいそうな感触だった。

曽我部隆二。リュージと呼んでください。

自己紹介を済ませた後で曽我部はリードを持つと、二人のやりとりに全く関心を示さず寝そべったままの犬に声をかけた。

グリット。行くぞ。お客さんを案内するんだ。

しかし犬は動かなかった。上目づかいに曽我部を見て、また大きなあくびをした。物憂そうに尻尾を二、三度振り、それで何かの義務は果たしたと言わんばかりに目を閉じた。リードを引っ張ってみたが無駄だった。

申し訳ない、曽我部はカヤに言った。

相棒はもう少し日向ぼっこしたいらしい。まったく。

わかります。

え?

今日はとても良い天気ですから。

そう言ってカヤは微笑んだ。亜麻色の髪がそよ風に吹かれてなびいた。

曽我部は道を確認するふりをして目をそらした。

えーと、公園を出ても、すぐに右に曲がっては駄目ですよ。そのまま行って二つめの通りを右です。いいですか?

はい。ありがとうございました、ソガベさん。それでは、また。

曽我部は挨拶をしてベンチに座った。

カヤは歩き出しながら麦わら帽子をかぶった。

歩道を歩いていくカヤを見送っていた曽我部は、公園の中に浮かび上がった彼女の輪郭の美しさに目を見張った。

頭上の空は凄惨なほど青かった。

(続く)

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