3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

20 殉教者たち

男は石畳を蹴って後ろざまに跳躍した。艶やかな黒髪が急速な動きに翻弄され舞い乱れた。脆弱そうな体躯からは想像もつかぬ獣じみた敏捷さ。

その左肩を、異様な圧力を持った塊が直撃した。

刹那、通常のネットゲームなら絶対に起こるはずのない――その一方、リアルならば程度の差はあれ誰もが体験する――知覚が男を襲った。予想だにしない衝撃。目もくらまんばかりの灼熱。

それは『The World』をプレイするようになってからこの方味わったことのない『痛み』だった。


唸り声とも吠え声ともつかぬ悲鳴が路地に響き渡り、フリューゲルは己の放った弾丸が相手のPCボディのどこかに命中したことを知った。ついでドウッと柔らかいものが地面に落ちる音がした。相手が転倒したのだ。だが蒸気の白煙に阻まれてその様子をうかがい知ることはできない。

フリューゲルは体を傾け、歩き出した。

最初の一歩を踏み出すのにたっぷり一ヶ月はかかったような気がした。手足に力が入らない。全身に粘つくような重さがあった。疼痛も感じていたが、それほどひどくはなかった――今はまだ。

周囲がぼやけて見えた。蒸気のせいではなく、目の上を咬まれて視界に霞がかかっているのだ。

折しも海の方角から風が吹きわたり、路地裏に立ちこめた蒸気を拭き散らしていった。武骨で殺風景な景観が戻ってきた。

数メートル先に十字路があり、一角に蒸気のパイプが電柱のように突き立っていた。システム管理者の姿をした男は這いながらその奥に回り込み、フリューゲルの方へ向き直るところだった。動いている。『停止』していない。

ブリーラー・レッスルの引き金が絞られる直前、男は二メートル以上もの距離を一息に跳び下がっていたのだ。

弾丸は間合いの外で命中した。相手に与えたのは、『The World』のシステムに準拠したゲーム上のダメージ。そしてリアル側へフィードバックされた『痛み』だけだ。

「あーあーあ。なんだか下水の臭いが全身にしみついたような気がするよ。好き勝手に思うさまかじってくれちゃって」

そう言ってフリューゲルは銃口を男の方に向けた。

「もうしんどい真似はしたくないよねぇ、お互いに。これからお前さんに近づいて、とどめを撃ち込む。当たり前だが、リアルで死ぬわけじゃない。そのPCボディのデータをちょいと『停止』させるだけだ。わかるか? 余計な手間をかけさせるなってこと」

「――経験して、初めてわかることがある」

立て膝のまま、パイプの背後で男は言った。

「シックザールPC同士の攻撃は、実に『身に滲みる』ものだな。堪能した……」

パイプの左右に男の両手の指先が添えられた。顔や姿は見えない。苦笑しているようだ。

撃鉄を起こし、相手の言葉に重ねて言った。

「そこから出てきなよ。抵抗しなけりゃ、今みたいに苦痛を味わわずに済む」

「君は見事に鼠たちから脱出し、生還してみせた」

男はフリューゲルの警告を無視した。

「厳密に言えば、まだこの路地裏を出てはいないが、それは問題ではない。ブリーラー・レッスルを使った奇手も見事だった。君の機転と判断力は最高の評価に値する」

指先が引っ込んで消え、ぱち、ぱちと拍手の音がした。

「AAA(トリプルエー)、最終テストは文句なしに合格だ。おめでとう」

フリューゲルはほんのわずかに身じろぎして、体の具合を確かめた。操作性は戻りつつある。狭い視界にも慣れてきた。

だが、問題は鼠だ。蒸気噴出機による攻撃で鼠群の大半を消滅させた手応えがあった。しかし全滅させたわけではない。

それなのに今、鼠は一匹もいなくなっている。忽然と姿を消している。男は何かを狙っているのだ。

パイプの両脇に再び掌が現れて、そろそろと上がっていった。パイプを支えにして男が立ち上がったようだ。痛みをこらえる嘆息が聞こえた。

「今の一撃は喜んで受け入れよう。これは崇高なる受難の証。我が試練の到来を告げる誇り高き聖痕」

「つくづく殉教者気どりだねぇ」

「能力を身につけた時、天啓だと悟った――私が十八年間、檻の中に閉じ込められたのも、その後サイバーコネクトに雇用されたのも、全てはそのためだったと。鼠を駆使して世界をネットの汚染から救うこと。それが私に課せられた使命だ。そのためならば、ウィルスをまき散らすネットテロリストの汚名にも甘んじよう。犯罪者との謗りも受けよう」

「嘘だな。お前さんは、特殊な力で殺人を犯すのを楽しんでるだけだ」

「ほう。なぜ、そのように決めつける?」

男の声が挑むように言った。

「でなければ、わざわざ自分と同じマンションの居住者を七人も殺害するものか。試練だとか受難とか、そんなものはお前さんにとって単なるアクセサリーに過ぎない」

フリューゲルは言い放った。

「断言してやるが、お前さんは殺戮を楽しむただのドブ野郎だ」

その言葉を受けて相手は動揺したかのように思われた。パイプの陰に潜む男の息が荒く乱れた。

しかしそうではないことにフリューゲルはすぐに気付いた。男は声を出さずに息だけを漏らして笑っていたのだった。

「では、君はどうなのだ? 君は違うのか?」

パイプの脇から片方の目をのぞかせて男は言った。

「君こそは私と同じ考え方を持っているものだとばかり思っていたよ、フリューゲル。一つ聞かせてほしい。カヤ・フレーベの思い出に満ちた夢を見る時、君は彼女に対してどのような感情を抱く?」

しばし沈黙が鼓動した。男の言葉が束の間理解できなかった。

「なに――」

「私が思うに、君は『彼ら』に酷似しているよ。決定的なところで違うとも言えるが、総体的にはやはり似ている」

「彼らだと?」

「かつて『The World』の深淵をのぞきこんだプログラマーたちに。彼らもまた殉教者だった」

「話が飛び過ぎてて、何を言ってるのかよくわからないな」

「ハロルド・ヒューイック」

と、男は続けた。

「恋人のために、彼はためらわなかった」

男がパイプの陰から顔を出した。フリューゲルをひたと見すえたまま一歩を踏み出し、全身が露わになった。

「犬童雅人(いんどうまさと)。妹のために、彼はためらわなかった」

フリューゲルに向かってゆっくりと歩き始めた。

「天城丈太郎。叔母のために、彼はためらわなかった」

喋りながらひたひたと近づいてくる。

「だが、君は彼らとはその点で明確に異なる。君は『ためらった』。リアルデジタライズの研究からすっぱりと手を引いた。なぜだね? 君はなぜ踏みとどまった?」

男の視線が唸りを上げているような気がした。

「問い方を変えようか。どうして一線を踏み越えられなかったのだ? 果たすべきだと信じる使命があり、それを果たすに充分な力量を持つ人間が、その実行に際して、なぜためらわなければならなかったのだね?」

その顔には例の聖者のような穏やかな笑みが浮かんでいる。

「もう一度聞くぞ。夢の中で、彼女は君に何を訴えている? それとも、彼女は夢の中でさえ君の元を訪れてはくれないか?」

両手を自然な形に広げ、フリューゲルを労わるようなそぶりを見せながら、男はブリーラー・レッスルの能力の射程距離を無造作に踏み越えてきた。

「それはそうだろうな。自分を見殺しにした男など……」

反射的に撃っていた。

弾丸は男の右目と鼻の間に命中し、頭の上半分を吹き飛ばした。ちぎれた部位のデータがノイズをひらめかせながらレンガ壁に当たって跳ね返り、男の足元に転がった。

男は一、二歩よろめいて後退したが、なおも立っていた。

「……これが答えか? フリューゲル。ギチチチチチ」

フリューゲルは息を呑んだ。

下顎だけが残った状態で倒れもせず『停止』もせず、昆虫が触覚をすり合わせるような声で笑ったかと思うと、男の全身に亀裂が走った。首から胸にかけて肉片のようなPCデータの塊がぼとぼとと崩れ落ちた。

それらの塊の一つ一つが鼠であることをフリューゲルは見てとった。

あっという間に男の偽りの姿は消え失せ、無数の鼠たちがレンガ壁と言わず石畳と言わずそこら中を縦横無尽に駆け回り始めた。

敏捷な獣たちに対し咄嗟に照準を合わせようとしたが無駄だった。

驚愕しながらも頭の片隅で理解した。蛸が自らの体を変形させて海底に化けるように、鼠たちが寄り集まって一体のPCに擬態していたのだ。

最初から瀬戸悠里本人ではなく鼠どもを相手にしていたのか? そんなはずはない。蒸気噴出機を出現させて弾丸を当てるところまでは間違いなくPC本体だった。その後、蒸気を目くらましに利用して、本体側はこの場を逃げ去ったのだ。鼠の身代わりを残して。パイプの陰に隠れていたのは露見するまでの時間稼ぎだ。

「聞け、フリューゲル。予告しよう」

朗々と響く男の声で、鼠の一匹が言った。

「五日だ。今から五日後、六月八日の木曜日」

と、別の鼠が言った。

「私は鼠たちを全世界に向けて解き放つ」

また別の鼠がそう言った。

「彼らは各端末に降臨し、ネットに倦み疲れた者たちに大いなる『救いの光』を与えるだろう。ギチギチギチ」

次から次へと鼠たちは入れ替わり立ち替わり男の言葉を発し続けた。

「君は私の試練だ」

「私は君の試練だ」

「試練は平等に与えられなくてはならない」

「だから私は君に能力を見せた」

「私を止めるために全力を尽くせ」

「どんな手段でもためらうことなく使うがいい」

「あらゆるものを総動員して私を追え……」

不意に、鼠たちの声が遠ざかり始めた。鼠群の影が少しずつ薄くなっていく。散開していく。

「その君を打ち砕き……私は鼠たちの思想の正しさを証明してみせるだろう……」

潮が引くかの如く、鼠たちは十字路から四方の奥へ消え去っていった。

後にはフリューゲルがただ一人残されていた。

鼠たちの気配は消えたように思われた。フリューゲルはしばらく銃を握り締めて立ち続けていたが、ふと全身の疲労を自覚して大きく息を吐いた。

だが、彼が力を抜きかけた瞬間に、その耳元で男の声が囁いた。

「……この『世界』を、欲望の鼠で埋め尽くしてやる……」

ぞっとする声音だった。荒涼とした不気味な虚空に吹きすさぶ風のようだった。

体を振り、肩にとりついていた一匹の鼠を払い落とした。

鼠は地面に落ちると、素早く壁を伝い、二メートルほどの高さまで一気に駆け登った。

「進物を置いていく。受け取りたまえ」

鼠はフリューゲルを見下ろした。

「良き試練に――」

炸裂した。

(続く)

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