3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

16 未帰還者

検査入院という名目でガス・フォックスは都内の総合病院に保護されていた。CC社がひそかに出資している子飼いの病院の一つで、首都圏で『The World』がらみの患者が発生した場合その七割近くがまずそこへ収容されることになっている、とのことだった。さすが慣れたものというべきか。公然とではないものの、そのあたりはすでに完全にシステム化されているのだ。

一日目は何事もなく過ぎた。ガス本人の意識ははっきりしていた。供された薄味の食事に文句を言った。健常者と何ら変わるところはなかった。

二日目に『発作』を起こした。検診中の看護師を押しのけ、うわごとのようなことをつぶやきながら強化ガラスのはめ込まれた窓を開けようとした。病室は五階だった。

次にキャビネットを持ち上げるとそれで窓を叩き始めた。看護師はガスを留めようとしてあっさりはねとばされ――体格差を考えれば無理もない――ナースコールを鳴らした。だが助けが来る前にガスはキャビネットごと床に倒れた。看護師が抱き起こした時にはすでに意識を失っていた。

曽我部とデビッドは応接室で院長である初老の医師から説明を受けた。デビッドは彼とガスがNAB調査員であることをすでに明かしているらしかった。医師は妙に協力的だった。

「――フォックス氏の症状及び予後経過は、二〇〇九年と二〇一六年にそれぞれ多発した『未帰還者』の症例と酷似しています。明確な違いは、ゲーム内で病因と思われる『もの』に接触してから意識不明になるまでに数日の『潜伏期間』があったこと。そして、意識不明になる直前、その――」

医師はそこでやや口ごもった。

「『衝動』に駆られて、高所から身を投じようとしたこと。この二点です」

「原因は何ですか。病理学的な、という意味で」

と、曽我部は言った。

「不明です。過去の事件と同じです。フォックス氏には時間の許す限り脳の検査を受けてもらっていましたが、どこにも異常は見当たらなかった」

医師はかぶりを振った。

「ただ、こん睡状態になる前に、まとまりのない言葉を羅列する症状――つまり『言葉のサラダ』が発生していたことから、脳の認知機能がまず障害されたと考えられます。言語野のどこかに、表面的な検査ではわからない何らかの変化があるはずです。そこを重点的に調べれば、あるいは」

「――いつぐらいに目が覚めるんですか?」

それまで黙っていたデビッドがたずねると、医師は喋るのをやめた。何かを言おうとして、少しためらい、そして言った。

「わかりません。明日目覚めるかも知れないし、一年後かも知れない。三年後かも知れない。未帰還者の病理そのものに関する研究は、二〇〇九年当時と比較してほとんど進んでいないというのが実情なのです」

「ずっと起きへんこともある?」

「その可能性はあります」


病院の外に出ると昼下がりの陽光が降り注いで曽我部の目を射た。まぶしかった。梅雨前の春の日ざしだ。

「ひとつ聞かせてもらいたいんやけどな、曽我部はん」

駐車場まで来た時、デビッドが口を開いた。

「あの時、どうしてすぐに反応できたんや?」

曽我部は立ち止まって振り向いた。デビッドがサングラスごしに曽我部の顔を見つめていた。

「あの時?」

「鼠が爆裂して光を放った時や。三人の中で曽我部はんだけが鼠の動きに反応できた。『見るな』と警告してくれはったやろ」

淡々とした口調だった。彼の口元にはいつも通り笑みのようなものが張りついていた。だがサングラスの奥にうっすらと透けて見える瞳は怜悧に輝いて曽我部を見据えていた。

「ひょっとすると、曽我部はんは、セトの能力を最初から知っとったんやないか? そうでなくとも、ある程度は想像がついとったんやないか? それを私とガスには黙っとった。ちゃいますか?」

「あー。違います」

と、曽我部は言った。

「ほななんで反応できたんや?」

「それは言えません」

「なんで?」

「最初の時点でお断りしたはずです。私は依頼人のためにあなたがたと協力をすると。その説明をすることは依頼人の不利益になる」

「同僚が倒れた。復帰できるかどうかさえわからない……」

デビッドは英語でつぶやいた。むろん独りごとではなかった。曽我部に向かって言っているのだ。

「だが、ひょっとすると、それは実は防げたことなのかも知れない。そこのところをはっきりさせておきたい」

「防ぐことはできなかった」

曽我部も英語で答えた。

「そうとしか答えられない。あの時、フォックスは鼠に一番近い場所にいた。彼は不運だった。もし彼ではなく私があそこにいたとしたら、光を回避できたかどうか極めて怪しい。そういう位置、そういうタイミングだった」

デビッドは身じろぎせずに曽我部の顔を凝視していた。刃物のように鋭い目つきだった。鋭すぎた。NABの単なる一調査員とは到底思えぬその視線を曽我部は真正面から受け止めた。そのまま十数秒ほど過ぎた。

「――鼠の能力については何も知らなかった?」

低い声でデビッドがもう一度たずねた。

「ああ、そうだ」

曽我部ははっきりと言った。そしてつけ加えて言った。

「彼のことは気の毒だと思う。本当に。運が悪かったとしか言いようがない」

駐車していた車が一台、クラクションを鳴らして曽我部たちの横を通り外に出て行った。

デビッドの眼光がふっと弱まった。彼はポケットから点鼻薬を取り出して鼻にさし、二度深呼吸した。それからぺこりと頭を下げた。

「すんまへん。失礼なこと言いましたわ」

なあに、どちらも隠し事をしてますからね、お互いさまです――とは曽我部は言わなかった。その程度の良識は曽我部にもある。

代わりに別のことを言ってみた。

「今後、瀬戸悠里や鼠の件をNABが正式に公表する予定はありますか?」

曽我部の言葉に、デビッドは一瞬だけ顔を歪めた。苦しげな迷いの色が見えた。だが次の瞬間には仮面をつけるように無表情になった。

「ない。それはあかん。できへん」

と、そっけない口調で言った。

二人は無言でまた歩き始めた。

やがてデビッドの車のところまで来た。黒の軽自動車だ。

デビッドは運転席に乗り込んでドアを閉めると、窓を下げて曽我部を見上げた。

「これからガスの容体を本部に報告してきますわ。今後の方針については、明日話し合いましょ」

曽我部はうなずいた。

「朝十時。遅くても昼前には連絡しますわ」

デビッドはそう言うと、軽く手を上げて車を発進させた。

曽我部は走り去っていく軽自動車を見送った。駐車場から出て見えなくなると、ポケットから飴を取り出し、包み紙をはがして口にくわえた。ハッカ味だった。

デビッドからの連絡を待つまでに何かすべきことはあるだろうか、と考えた。特に思いつかなかった。

すべきというほどではないにしても、とりあえずしておいてもいいようなことはあるだろうか、と考えた。あった。

曽我部は携帯端末を操作してメーラーを立ち上げると、ネットスラムの情報屋に宛てて、マク・アヌのカフェテラスに来てほしいという旨のメールを送信した。

それから自分の車に乗った。アクセルを踏んだ。マンションに帰り、ベーグルサンドを持ち出し、飲み物を買って事務所に行こうと思っていた。三時過ぎには着くだろう。

(続く)

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