3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

15 昼食

鼠との遭遇から二日後、土曜日。

気持ちのいい午前だった。窓の外はよく晴れていた。やっかいな仕事がなければ人生のすばらしさを謳歌できる日だ。こんな日に公園のベンチに寝そべって野良猫をからかいながら飲むウィスキーはうまいだろうと思った。だが曽我部にはやっかいな仕事があった。猫と遊んでいる場合ではなかった。

寝室のベッドに腰掛けて、教えられていた番号に電話をかけた。取り次ぎの女性に名を告げてしばらく待った。やがてヴェロニカ・ベインのけだるくかすれた声が聞こえてきた。

「リュージ。報告書は読ませてもらったわよ」

「口頭でもお伝えしておこうと思いまして。いくつか進展もあります」

と、曽我部は答えた。

『ペットショップ・チムズ』で起きた出来事を話した。デビットらとの経緯は以前に報告済みだ。

曽我部が話し終えると電話の向こうで長い吐息がした。パイプの煙を吹いているのだろう。濃厚な甘い息が匂ってくるような気がした。

「――ゲームの中で鼠を使うのがセトの力というわけね」

「おそらく」

「鼠が自爆すると、『デッドリー・フラッシュ』を放つ?」

「あー。いや、違います。鼠の光は『デッドリー・フラッシュ』そのものではありません。もっとたちが悪い。それを見た者に『投身自殺への欲求』を植え込むような効果を持っているようです。どういう理屈なのかはわかりませんが」

「光を浴びたNAB調査員のその後は?」

「昨日から都内の病院に検査入院しています。今のところ、何の異常も見当たらないと聞いています」

「それは良かった」

どうでもよさそうな口調でヴェロニカ・ベインは言った。

「それから、トラヴィス・ボンド――ロサンゼルスのハッカーは生きています。彼の住んでいたアパートが二階建てだったこと、駐車場に停まっていた車の上に落ちたことが幸いしました。窓枠を乗り越える際に右足の脛をひどく打った他は怪我ひとつないそうです」

「本人は何と言っているの」

「話は聞けません」

曽我部は答えた。

「意識不明の状態です。外傷はほとんどないにも関わらず」

しばらく沈黙があった。長い吐息。

「悪趣味な力ね。性根の腐ったクラッカーが身につけるにふさわしい能力というべきかしら」

「『The World』の日本サーバーの運営を一時的にでも停止することは可能ですか」

曽我部は一応聞いてみた。

「あら。どうして?」

ヴェロニカは聞き返した。意外なことを聞いたというような口ぶりだ。

「遠く離れた他人に対し、ゲーム回線を利用して危害を加えることのできる者がいる。そして、実際に犠牲者を出している。その数はさらに増え続けますよ、まず間違いなく」

言いながら曽我部は鼠の目を思いだしていた。爆裂する直前。あの時、曽我部はフリューゲルを通して鼠の瞳の奥をのぞき込んだ。向こう側にいるはずの瀬戸悠里自身の『目』を垣間見たのだ。明確な悪意があった。これから自分が何をするのか。それによって何がもたらされるのか。はっきりと自覚していた。自らの意思で行動していた。何もかも理解した上で、何かを目指して鼠を操っている――。曽我部はそう感じた。

「企業側の立場から言っておくけれど、『The World』のようなオンラインゲームの運営を停止させた場合、一日につきどれだけの損害が発生すると思う?」

「少なくとも鼠の被害を防ぐことはできます」

「日本サーバーではね。でもそうなったら、セトはよそのサーバーに移るだけじゃなくて? 今度はそこも停める? また別のところに移動したら? 次から次へと停めていく? そんなことは不可能よ」

そう答えられるだろうと思った通りだった。

「リュージ。あなたを雇っているのは、そういう事態を回避するためでもあるのよ」

「責任ある仕事を任せてもらってうれしいですね」

含み笑いが聞こえた。

「――NABの方はどう?」

ヴェロニカが話題を変えた。

「そうですねぇ。利害が一致しているうちは信用できると思います。ただし、全面的に気を許すのは危険かも知れません」

「どういう点でそう判断するの?」

「NAB本部の人間が動いている理由がわからない。連中が日本に来ていること自体が不自然です。日本には赤坂支部がある。この国での活動は赤坂の調査員に任せれば済む話です」

「つまり? 彼らには他に目的がある?」

「そこまではわかりませんが、何かを隠していると思います。そういえば、彼らは最初あなたを追ってきたと言っていました。何かお心当たりは?」

「ありすぎるわね」

ヴェロニカはさらりと言った。

「そうですか。あー。しかし、彼らと協力するメリットは大きい。このまま続けて構いませんか」

「私は人を雇ったら、いちいちやり方を指図したりはしない。あなたにまかせるわ」

と、ヴェロニカは言った。そして独りごとのようにつぶやいた。

「NABとサイバーコネクト。監視する側とされる側。相容れない二つの存在が、仲良く手を携えることになるなんてね……。なかなか興味深い状況だとは思わない?」

「まあ文学的ではありますね」

曽我部は当たり障りのない返答をした。自分がサイバーコネクトの人間でないことは言わないでおいた。

「セトについて何か新しい手がかりをつかんだなら、こちらにおいでなさい。直接あなたの口から報告を聞かせて」

ヴェロニカはゆっくりと息を吐いた。

「―――そのうち、文学的な事についても話し合ってみたいわね」

電話は切れた。

「それは素敵ですねぇ」

曽我部は携帯端末に向かって言った。


キッチンではリーリエがセーラー服にエプロンをつけて昼食の用意をしていた。午後から学校で何かの行事があるとのことだった。曽我部はリビングの方へ歩きかけたが、ふと足を止めた。

リーリエはこちらに背を向けて流し台の前に立っている。包丁で何かを切りながら鼻歌を口ずさんでいた。

曽我部がじっと見ていると、気配に気づいたらしいリーリエが振り返った。

「なぁに?」

「……あー」

と、曽我部はまな板の上を指さした。

「うまそうだなと思ってねぇ。昼はサンドイッチ?」

「ベーグルサンド。商店街の入口のとこのパン屋さんでライ麦ベーグル買ったの。人気あるから滅多に買えないやつ。焼きたてだよ」

得意そうな顔でリーリエは言った。

十分後、食卓にはベーグルサンドとサラダと味噌汁が並んだ。曽我部家ではどんなメニューでも必ず味噌汁が出る。

曽我部とリーリエは向かい合って座った。

「きれいにできた。ほら」

リーリエは縦に切ったベーグルを持ち上げて切断面を曽我部に見せた。

「横からの眺めが美しいよ。いひひ」

曽我部は自分のベーグルサンドを手に取ってかじった。

ドライトマト、サーモン、クリームチーズ、薄切りの玉ねぎといった具材が、横にカットされたベーグルの間に詰まっている。

「おいしー。パリパリなのにもっちりしてる」

「そうだな。うまいねぇこれは」

と、曽我部は言った。

しかし、実際のところ、曽我部には料理の味がほとんど感じられなかった。

右頬――『ペットショップ・チムズ』のウィルスバグに打たれた個所に微小の針を無数に差し込まれたようなピリピリした痛みが残っていた。舌に刺が刺さったような感触があった。味覚が正常に機能していない。シックザールPC操作中にリアル側へフィードバックされるような仕様外のダメージを受けた時に発生する軽度症状の一つだ。

CC社在籍時の曽我部であればあの程度のスピードの攻撃は難なくかわせていたはずだった。VRスキャナで『フリューゲル』をコントロールする曽我部自身のスキルが低下しているのだ。三年のブランクは如何ともしがたい。

「ところでお前ね、女の子なんだから『いひひ』って笑うのはやめた方がいい」

と、曽我部は言った。

「え? 笑わないよ」

「今笑っただろ」

「そんな変な笑い方してない」

リーリエは言い張った。

「リュージじゃないんだから」

「ああ、そう……」

曽我部は半切れを食べ終え、味噌汁を飲んだ。

「――ネネちゃんがね、国立バレエ団の採用試験の一次に合格したんだって」

不意にリーリエが言った。

「ほーお。やったじゃないの。緒戦突破だな」

「リュージにお礼を伝えといてだって」

「俺に?」

「向こうに行く時、あっちの言葉を教えてあげたでしょ」

小春寧々はかつて曽我部やリーリエと一緒にCC社で働いていた少女だ。それ以前は、彼女は精神科医である曽我部の患者だった。

CC社での仕事が終了した後、寧々はドイツのハンブルクにある国立バレエアカデミーへの留学試験を受けた。精神疾患が発症するまで寧々はさまざまなコンクールで入賞し将来を有望視されていたバレエダンサーの卵だった。

旅立つまでの半年間、曽我部は彼女に乞われてドイツ語の基礎レッスンを行った。アカデミーの授業を受講可能なドイツ語力を身につけている、というのが入学条件の一つとして挙げられていたからだ。

結果、寧々はアカデミーへ無事に入学することができた。

彼女になついていたリーリエはその後も手紙やインターネット電話などでこまめにやりとりをしていた。寧々の近況はリーリエから知ることができた。今年に入って不景気のあおりを受け例年に比べてバレエ団の新人枠が大きく減らされたと聞かされていた。

彼女の一次合格は不吉な前ふりを吹き飛ばす明るいニュースだ。

寧々は成功するべきだと曽我部は思った。

曽我部は寧々の闘病の様子を間近で見ている。ダンサーとして再起するためにどれほどの修練を積んだかを知っている。才能を持ち、逆境に耐え、努力を絶やさない人間は成功し幸せになってしかるべきだった。

リーリエは手に持ったカップを見ながら言った。

「あのね、リュージ。あたし――」

その時、曽我部の懐が震えた。リーリエを手で制して携帯端末を取り出した。

デビッドからだった。

「どうも、曽我部はん。今、ちょっとよろしいですか」

曽我部はリーリエに背を向けるようにして携帯端末を持ち直した。デビッドの口調には不自然な堅さがあった。ちらと嫌な予感がした。

「ええ。構いませんよ。何か?」

「病院から知らせが来ましたわ。ガスがこん睡状態に陥った」

周囲の温度が一気に下がったようだった。

曽我部は立ち上がるとキッチンを出てリビングを抜け、寝室に入ってドアを閉めた。

「飛び降りたのですか?」

「いや。病室から外に出さんようにしとったからな。看護士の話やと、部屋の中で突然暴れだしたと思ったらすぐに倒れたそうや。抱き起した時にはすでに意識をうしなっとったと」

デビッドはそこで気を静めるように少し息を継いだ。

「……私はこれから病院に行きます。できたら曽我部はんにも来てほしい。症状やら検査データやら、専門的な話になるかもしれへん」

「わかりました。すぐに行きます」

曽我部は携帯端末を切ると、すばやくスーツに着替えてキッチンに戻った。

「すまないが、仕事が入った。残りはラップしといてくれ。後で食べる」

リーリエはうなずいてミルクを一口飲んだ。

曽我部は玄関に向かおうとして立ち止まった。

「あー。お前、さっき何か言おうとしてなかった?」

リーリエは首を振った。

「大したことじゃないよ。いってらっしゃい。ベーグルは冷蔵庫に入れとくから」

(続く)

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