3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

09 怪物

はるか昔、大正の御代のこと。とあるイギリス人の綿商が日本を訪れた際、現地民たちの礼儀正しさやつつましさに深く感銘を受け、帰化して東京に住居を構えそのまま生涯を終えた。子供がなかった彼は、彼に忠実に仕えた日本人の召使に全財産を譲り、日本と諸外国の交流のために尽力してほしいと遺言した。

かくして綿商ギル・ベイクトン氏の遺志はホテル創始者となった召使とその子孫たちによって現代も脈々と受け継がれている。古き良き時代のエピソード。

ということを道中のネット検索で知った。

実際に目にしたベイクトンホテルは日本有数の超高級ホテル以外の何物でもなく、そのようなセピア色の逸話とは無縁の存在のように思われた。

ボーイに車を預けると、曽我部は宮殿然とした優雅な入り口をくぐってロビーに入った。

口にくわえていたキャンディの棒をごみ箱に捨てようとしたが、それらしいものが見当たらなかったので、仕方なしに上着のポケットに突っ込んだ。

そこへ寸分の隙もないスーツ姿の男がやってきた。

「お待ちしていました。小倉です。どうぞ、ご案内します」

彼は電話越しに聞いたのと同じ声で言うと、曽我部に背を向けて足早に先導し始めた。

足元に敷き詰められた毛の長い絨毯の海を渡ってエレベーターに入ると小倉は最上階にあるペントハウスのボタンを押した。箱はゆるやかに動き始めた。

最初の挨拶をすませてからは、小倉は無言だった。

「ちょっと聞いておきたいのですが」

と、曽我部は声をかけた。

「仕事の話というのは何ですか」

「それはこれから行く先でご説明があると思います」

「おおまかでいいので、前もって教えていただけませんか」

「できません。私にはその権限が与えられていないのです」

小倉はにべなく答えた。

だがその言い方とは裏腹に、小倉の目が落ち着きなく動いているのに気づいた。よく見れば彼の額にはかすかに汗がにじんでいた。

この男は緊張している、と曽我部は感じた。自分に対してではない。これから向かう先に対してひどく緊張している。

エレベーターはペントハウス・スイートの階層に到着した。通路の突き当たりにドアが一つあり、そこに白人の男が立っていた。曽我部よりも頭一つ分背が高い。体重の方は倍近くありそうだった。ダークグレーのスーツが全身の筋肉に押し上げられて変形し生地越しにその形がわかるほどだった。絵に描いたようなボディガードだ。

この白人が誰かのボディガードであるとして――と、曽我部は思った。その誰かはこの部屋の中にいるのだろうが、何者だ? CC社はなぜこんな回りくどいことをするのか?

「曽我部氏をお連れした」

と、小倉が英語で伝えた。

ボディガードはうなずくと、曽我部に向き直り、ポケットから何かの機械を取り出して、曽我部の体の数か所に手際よく突きつけ始めた。

「カメラやボイスレコーダーなどのチェックです。この部屋の中では一切の記録を残してもらいたくないのです」

小倉が通訳のように曽我部にそう伝えた。

その言葉が終わるか終らないかのうちに、ボディガードのグローブのような掌がのびてきて、曽我部のシャツの第二ボタンをむしり取っていった。

「レコーダー。これはNGだ」

と、ボディガードは英語で言うと、曽我部から強奪した、ボタンを模した突起のついた小型ICレコーダーを自分の胸ポケットにしまった。

「あとで返却する」

「修繕の費用はお車代と一緒にお渡しします」

と、小倉が小声で言い添えた。

曽我部はボディガードの顔を見上げた。

ボディガードも曽我部を見下ろした。

「あー。今日は蒸しますからねぇ」

曽我部は小倉の方を向いて言った。

「ちょうど襟元を開けようと思っていたところです。手間が省けてサンクス! マイフレンド! とお伝えください……いや、待って。ちょっと待って」

曽我部は上着のポケットからキャンディの棒を取り出すと、ボディガードに差し出した。

「見落としたねぇ、これも最新式のレコーダーなんだよ。はい、どうぞ」

自然な流れで受け取ってしまったボディガードが一瞬固まった。

「ダストボックス的な場所に保管をよろしく」

その横で小倉がドアをノックしようとしたが、それに気付いたボディガードはすばやく前に出て遮った。

「曽我部氏だけを通すように言われている」

その言葉を聞いて、小倉は明らかにほっとした様子だった。曽我部に会釈すると、そのまま姿を消した。

曽我部は怪物が潜んでいる洞窟前に置き去りにされた生贄か何かになったような気がした。

ボディガードがドアをノックすると、中から女性の声で「どうぞ」と聞こえた。日本語だ。

ボディガードは振り返って曽我部をじろりとにらんでから、キャンディの棒をズボンの後ろポケットにねじ込み、ドアを開けて中に入った。曽我部はその後についていった。

最初に気付いたのはタバコの匂いだ。ほのかに甘酸っぱい匂いがこもっている。

西洋風のアンティークのような室内装飾。家具。広々とした部屋の中央には細長い巨大なテーブルが配置されており、貴族の会議でも始まりそうな雰囲気だ。

ブロンドの白人女性がテーブル向こうのソファに脚を組んで座っていた。彼女の前にはタバコの葉が拡げられており、それを指につまんでもみほぐしては薔薇をかたどった陶製のパイプに詰めていた。

曽我部の方を見ようともしなかった。

「スティーブ。さがって」

と、彼女はパイプをいじりながら英語で言った。

ボディガードは無言で部屋から出て行った。彼はドアを開ける時も閉めるときも歩く時も一切音を立てなかった。

女は肉感的な体にぴったりしたスーツを身に着けていた。目のやり場に困るタイプの美しさ。だが見ないわけにはいかなかった。年齢はわからない。三十代後半のように思えるが、見ようによっては二十代のようにも四十代のようにも見える。美人ではあったが、どこか得体の知れない雰囲気を漂わせていた。

テーブルをはさんで女の向かい側にもソファがあった。しかし勧められなかったので曽我部は黙って立っていた。

やがて女はパイプにタバコの葉を詰め終えると前世紀的なマッチを使って火をつけ、自分自身にもこの宇宙にも満足しきっているという面持ちでパイプをふかし始めた。紅の塗られた唇がなまめかしく動いた。

それから目を上げ、煙越しに初めて曽我部を見た。かすかに微笑した。切り開いた傷口のように魅力的な笑みだ。

「あなたが曽我部隆二?」

流暢な日本語で言った。

「ええ」

と、曽我部は言った。

「リュージと呼んでいいかしら」

「どうぞ。親しい人間はそう呼びます」

「そういう間柄になれるといいわね、お互いに。――私の事は御存じ?」

「もちろんです。ベインさん、お会いできて光栄です」

曽我部は如才なく言った。


元ALTIMIT社のメインプログラマー兼役員。現サイバーコネクト・サンディエゴ社会長。世界各地に存在する十余りの現地法人の頂点に立つ最高権力者。

ヴェロニカ・ベインはさらに二口ほどパイプをふかした。

「ご来日はもう少し先だというニュースを見た記憶がありますが」

「早めに来なくちゃならない用事ができたのよ。あの男のせいでね。ヨドガワのせい」

ヴェロニカは何でもないことのように言うと、目を細めて曽我部をじっと見た。

「リュージ。私もあなたのことを知っている。調べさせてもらったわ。曽我部隆二。二〇〇九年、ドイツのミュンヘン大学に留学。二〇一〇年、学内精神医療センター被験者のカヤ・フレーベと結婚」

不意に鉛の塊を胃の中に落とし込まれたような気分になった。

「二〇一七年に大学を辞して日本に帰国し、ジャパン社に雇われる。二〇二○年に『イモータルダスク』事件の現場に遭遇。ジャパン社との契約を打ち切った後にネットワークトラブル・コンサルタントを開業、現在に至る」

ヴェロニカはそこまで言うと、曽我部を見つめたままパイプをさらにふかした。

「間違いないかしら」

「概ねのところは」

と、曽我部は答えた。

「とっくにわかっていると思うけど、私があなたを呼んだのは、あなたが隠し持っているVRスキャナを返却してほしいから。あなたがあれの開発者だということは無論知っている。でも、今では我が社のものよ」

煙の中でヴェロニカ・ベインが曽我部を見据えていた。鳥の巣をのぞきこむ蛇のような目つきだった。

「あなたが持っていて良い物ではない。わかるわね」

「何の事だかわかりませんねぇ。ぶい、あーる……なんとか? 昔そんなものを手がけた記憶があるような気もしますがもう忘れてしまいました」

ヴェロニカの口元が歪んだ。歪んでもその唇は美しかった。低い声で言った。

「今さっき、私が誰だか知っていると聞いたわ」

「ええ。そうお答えしました」

「フリーの業者を一人潰すぐらい造作もないことよ」

「私が言いたいのは、正規の手続きを経て話を持ってきていただきたいということです。この国は法治国家ですからね。あなたのところと同じく」

ヴェロニカの口元には笑みが浮かんだままだ。

「まずは淀川さんがVRなんとかを持ち出したという証拠が必要でしょう。その次に、私が淀川さんからVRなんとかを受け取ったという証拠がいりますね。それに、私はネットワーク業務に携わる許可証を持っている。つまり、NABの法的保護を受ける権利があるということです。役職柄認められた守秘義務も有している」

ヴェロニカは底光りのする目で曽我部を見つめていた。笑みはいつの間にか消えている。

「あなたはヨドガワとさほど親しい間柄ではなかったはず」

「まあ、リュージと呼んではくれませんでした」

「あなたにとってヨドガワはただの依頼人に過ぎない。彼が死んだ今、義理立てする必要は全くない。それなのに、あなたは何のために動いているの?」

曽我部は答えなかった。わざとらしくため息をついてみせた。

「いい加減にしてもらいたいですね。夜八時に呼び出されて家族の団欒の機会をつぶされ、シャツのボタンをむしり取られ、嗅ぎ慣れない外国産のタバコの煙に巻かれて、ゴシップ雑誌みたいに過去をほじくり返され、脅迫され、仕事から手を引けと言われて、一体誰が素直に応じるというんです」

一息に喋ってから胸ポケットに手をやり、ヴェロニカを見た。

「構いませんか」

「どうぞ」

曽我部はキャンディを取り出して包装紙をはがして口にくわえた。キャラメル味だった。

ヴェロニカは眉をひそめた。

「禁煙しているの?」

「あなたは飴をなめるのを我慢しているのですか?」

と、曽我部は言った。

しばらく間があった。

「くっくっ。くくくくっ」

笑い声が漏れた。ヴェロニカはソファの上で身をよじり、おかしそうに言った。

「いいわ。いいでしょう。くくっ。気に入ったわ、あなた」

曽我部を見て笑いかけた。

「VRスキャナは預けておきましょう」

さきほどまでのものとは異なる打ち解けた笑い方だった。少なくとも、表向きは。

「いいえ、本当の事を言うわ。あなたにはそのままVRスキャナを使っていてほしい」

これは想定していない言葉だった。

「頼みたいことがあるのよ。――どうぞ、お座りなさい」

ヴェロニカは薔薇のパイプで前のソファを示した。

「仕事の話ですか」

「そう」

曽我部は束の間ためらった。ソファに座ると悪い状況に取り込まれることになるのではないかという不吉な予感がしたのだ。

逡巡は一瞬だった。曽我部はソファに腰を下した。

「これから話すことは、ジャパン社ではなくサンディエゴ社のこと」

と、ヴェロニカは前置きした。

「特別待遇で雇っていたプログラマーが逃げた。あなたに彼を追ってほしいの」

曽我部はしばし黙った。

「あー。まあ、そういう話はよく聞きますよねぇ。そちら様の業界では特に。大変なことだと思いますよ。残された人たちはもう本当たまらないでしょうねぇ。ええ、まったく」

と、曽我部は言った。

「……しかし、なぜ私ですか? お国で他の誰かを雇えばいいでしょう」

「あなたでなければならない。あなた以上の適任者はいない」

ヴェロニカは言った。

「その男の本質はハッカー……いいえ、筋金入りのクラッカー(悪意のある改ざん者)なの。逃亡する際に我が社のセキュリティを易々と突破して、厳重に保管していた機密資料をいくつか奪っていった。その中には、あなたがジャパン社に所属していた頃に開発した機材や研究データも含まれている。もちろん、VRスキャナも」

曽我部は自分の体が内側に向かって縮んでいくのを感じた。

「まさかそいつはシックザールPCの適合者ではないでしょうね」

「そこまではわからない。でも可能性はある。あるいは自分が利用できるようにデータ側を改変してしまうかもしれない。それくらいのことはできるスキルを持っている」

『The World』という電脳世界で圧倒的な能力を誇るシックザールPCは、悪用されれば取り返しのつかない犯罪(サイバークライム)を引き起こす可能性を秘めている。

「ユーリ・カジンスキー・セト。それがクラッカーの名前」

「ロシア系ですか」

「日系よ。――いえ。日本人というべきね。ハーフだけど、国籍は日本のままだから。そちらでの名前は、瀬戸悠里(せとゆうり)」

常識的で良識のある者がその名前を聞くとたいてい沈黙する。

むろん曽我部も沈黙した。

「『死の光(デッドリー・フラッシュ)』の瀬戸ですか」

「その通り」

ヴェロニカはうなずいた。


二〇〇三年十二月、ネットワークを介して各端末に侵入し、人間の意識下に働きかける画像を閃光とともに表示して対象の生理機能を狂わせるという、悪質なウィルスによるハッキング事件が起きた。

被害者は視床下部に強い刺激を受け、嘔吐、めまい、ひきつけ、痙攣、意識障害などの症状に見舞われ、全世界で七名もの死者が発生した。

世にいう『デッドリー・フラッシュ』事件。

『冥王の口づけ』以前で人を死に至らしめた唯一のネット犯罪であり、ウィルス制作者である瀬戸悠里は全国規模の捜査に追いつめられ、進退きわまった挙げ句に飛行機でアメリカへ高飛びしようとして、到着先のワシントン・ダレス国際空港でFBIによって逮捕された。

その後、瀬戸は国際法のネットワーク騒乱罪を適用されてネット犯罪による初の死刑判決を受けた――はずだった。


「……司法側が取引を持ちかけたのよ。セトは世界中のネットテロリストと交流があった。その情報と引き換えに終身刑へと減刑された」

ヴェロニカは続けた。

「それに、獄中に居ながらネット犯罪の捜査に進んで協力して大きな功績を上げたことが評価されてさらなる減刑につながった。去年の六月、十八年の刑期を終えて出所したの。その時に行われた精神鑑定でも異常なし。完全に更生したと判断された」

「で、釈放後、サンディエゴ社が拾い上げたというわけですか」

犯罪に手を染めたハッカーが更生後に企業に雇われてセキュリティ側につくことはよくある話だ。それ自体は珍しいことでもなんでもない。

だが一時は死刑判決を受けたほどの犯罪者をCC社のような世界的大企業が雇うケースは他に類を見ないだろう。

「驚きましたね」

と、曽我部は言った。

「というより、呆れましたね。泥棒に金庫の番をさせたに等しい」

「それは結果論よ。優れたスキルを持つ人材は宝であり、多少のリスクを冒してでも確保すべきだと考えている」

ヴェロニカは言った。

「とはいえ、それが裏目に出たことは認めるわ。だからあなたに依頼をするの。シックザールPCはシックザールPCでしか倒せない。そうでしょう?」

「一部例外もありますが」

と、曽我部は小声で言った。

「セトはシックザールPCのデータを使って何かを企んでいる。あなたなら、ゲームの中で決着をつけることができる。フリューゲルの弾丸(バレット)なら」

「当然、警察には知らせたのでしょうね?」

「いいえ」

ヴェロニカは首を振って否定した。

「通報していない。今後も外部に漏らすつもりはない。あなた以外には」

「なぜです」

「機密事項だからよ。VRスキャナやその他のテクノロジーの存在を表ざたにすることはできない。我が社の利益に反する」

「あー。なるほど」

曽我部はつぶやいた。まあわかりやすい回答ではある。

「世間一般に知られることなく、ユーリ・カジンスキー・セトに盗まれた諸々の機密データを回収すること。それがあなたへの依頼」

「まだお受けするとは言っていません」

「すでに引き受けたも同然なのよ。セトが業務中に使用していたコードネームを教えてあげましょうか?」

ヴェロニカは身を乗り出してささやくように言った。曽我部の鼻先に濃厚な甘い香りの息が漂った。

「ガイストよ」

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