3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

06 再誕の年

翌朝、曽我部は事務所を出てマンションに戻った。洗濯物をつめたビニル袋を抱えて上にあがり、自宅ドアにカードキーを滑らせて中に入った。

リーリエはすでに起きていて、リビングでパジャマ姿のまま朝のアニメ番組を見ていたが、曽我部が帰ってきたのに気づいてあわてた様子で言った。

「グリちゃん。ニュース」

テレビのチャンネルが切り替わり、ニュース番組になった。

中学生になる直前くらいからリーリエは曽我部の前で子供向けのアニメを見るのを恥ずかしがるようになった。思春期の兆候なのかも知れない。

「おはよう」

と、曽我部が声をかけると、リーリエは澄ました様子で答えた。

「おはよ」

気まぐれでチャンネルを変えていただけで、今また本来のニュースに戻したとでも言うように。

それから曽我部の顔を見て眉をひそめた。

「それ、どうしたの?」

「あー。これ?」

事務所を出る前に、曽我部は左目の下の湿布を外して大きめの絆創膏に張り替えておいた。これなら吹き出物がつぶれたように見えないこともない。

「でっかいニキビをつぶしちまってね。すんごい痛かった」

リーリエは顔をしかめたが、それ以上は詮索しなかった。

「朝ご飯はどうする? すぐ食べられるよ」

「すぐ食べる」

と、曽我部は言った。空腹だった。よく考えると昨日はろくにものを食べていなかった。

「グリちゃん、キッチン」

リーリエが言うと、廊下の向こうのキッチンで換気扇が唸り始めた。

グリちゃん――『グリット』は曽我部の家の家電類を管理するサーバーロボの名前だ。

リーリエは『グリット』に指示して調理具を起動させ、てきぱき動いて朝食の用意を整えた。ご飯、味噌汁、おひたし、ベーコンエッグ。そして、しば漬け。

キッチンのテーブルで向かい合って座った。

何者にも邪魔されない、得がたき崇高な家族の食卓。

問題は、固い漬け物を咀嚼するたびに左頬に激痛が走ることだった。腫れが引いたことで少し甘く見ていた。外面を気にして湿布をはがすべきではなかったかも知れない。さりげなく顔を傾け、右側の歯で噛むようにしたが、痛みを和らげる効果はゼロに等しかった。

ふと顔を上げると、食べ終えたリーリエが心配そうな表情で曽我部を見ていた。

「ねえ、やっぱり変だよ」

彼女は曽我部の頬に目をやりながら言った

「何かあったの?」

「実は、ごみ袋を買ってくるの忘れたんだ。すまん」

「そうじゃなくて」

「まあ、それよりも」

と、曽我部は強引に話をそらした。

「この素晴らしい漬け物に対するお礼のプレゼント」

封筒ケースを取り出してリーリエの前に置いた。

「え。なあに?」

不意を突かれたリーリエが反射的に声を弾ませて封筒を手に取った。中をのぞき込み、うれしそうな表情のまま数秒ほど固まっていたが、やがて何とも言えない微妙な顔になって曽我部を見返した。

「これ、なに?」

「テレホンカード」

「てれほんかーど?」

「公衆電話で使えるカードだよ。やったぜ。お得だね」

「コーシューデンワ?」

リーリエが首をかしげて言った。

「……って?」

きょとん、とした口調でリーリエは聞き返した。何がなんだかわからないといった表情だ。

「ああ、そうか……。お前、見たことないのか」

リーリエが曽我部と一緒に日本にやってきたのは六年前。その時公衆電話は時代の流れに淘汰され、すでに国内のものは撤去されつつあった。いや、完全に撤去された後だったかも知れない。彼女は公衆電話とテレホンカードの存在そのものを完全に知らないのだ。ジェネレーションギャップ。

「あー。つまり、昔そういう便利な公共の設備があったの。このカードを使えば好きなだけ電話がかけられる」

曽我部は要領よく説明しようと試みた。

「携帯があれば、いらないんじゃないの?」

「非常時に電源が切れてたら困るだろう。で、警察の肝煎りで最近になって旧電話回線が復活したんだよ。ほら、警視庁の推薦のマークな」

「でも、どこで使えるの? あたし、ええと、公衆電話……なんて見たことないよ」

「そうだね。どこで使えるんだろうね」

と、曽我部は言った。

「そこまでは知らないな」

「知らないのにプッシュしてたの?」

携帯端末のネット検索で調べてみた。

「……へええ。大きな駅とか空港で使えるみたいだねぇ。全国稼働数が二百台だって。……二百? 二百ってちょっと少ないんじゃないの。あーなるほど。だからカードにもレアリティがついてるんだな」

「え、そうなの?」

「え、違うの?」

「知らないよ。もー。適当なこと言って」

「まあいいから持っときなって。減るもんじゃないし」

「日本語がおかしい」

と、リーリエは言った。

「それにほら」

曽我部は小声で付け足した。

「イラストのマスコットもかわいいじゃないの」

「いらない」

まるでその一言が決め手になったようなタイミングでリーリエはぴしゃりと言った。

「グリちゃん。お湯沸かして」

彼女は自分の食器をまとめると、封筒ケースを曽我部の方に押しやって流しの方にさっさと行ってしまった。

六年前。今でもときおり語られる悪名高き『再誕』の年。二〇一七年。

曽我部は長年住み慣れたドイツを離れ、リーリエを連れて日本へ帰国した。

リーリエは曽我部の亡き妻の遠縁の娘で、当時七歳だった。列車事故で家族を失い、彼女自身後遺症でPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかっていた。曽我部の他に身寄りがなく、彼が引き取りを拒否すれば施設に送られていたはずだ。そしておそらくは適切な処置を受けることができず、症状を深刻にこじらせていっただろう。

結局のところ、母国ドイツを離れたのが彼女にとって幸いしたのかも知れない。

曽我部と同じように。

食器の乾燥を『グリット』にまかせると、リーリエはシャツにスカートとレギンスを組み合わせた私服に着替えて外へ遊びに出かけた。友達と会う約束をしているのだという。せっかくの振替休日だというのにそのバイタリティには恐れ入る。

リーリエを見送った後、曽我部はリビングのソファに腰掛け、携帯端末とパームパソコンを取り出してテーブルに並べた。

事務所に戻ってから仕事に着手しようと考えていたが、リーリエが外出するのなら今のうちに済ませてしまおうと思った。

パームパソコンのキーボードを展開すると、自動的に電源が入って、『The World R:X(ザ・ワールド・リビジョンエックス)』のログイン画面に移行した。

『R:X』は二〇二〇年に公開された『The World』シリーズの最新作だ。公式発表によれば、全世界のユーザー数は一千万人を超す。旧作の『R:1』や『R:2』と比べてやや減少しているものの、それでもネットゲーム業界の中で別格の人気を誇っている。

まず公式掲示板で目当てのスレッドを呼び出した。一月前に曽我部自身が立てた物だ。

“宿命より奇術師へ。連絡を乞う。メール可。”

レスは一つもついていなかった。当然だった。部外者にとって意味不明の書き込みである以前に、そもそも呼びかけの対象であるガイストは、この『世界(ザ・ワールド)』にすでに存在していないのだから。

二〇二〇年のイモータルダスク事件で、天城丈太郎のコピーAIの『奇術師』ガイストは、認知外依存症の終末発作を引き起こして巨大化した丈太郎自身に叩き潰され消滅した。欠片も残さずに。主人に忠実に仕え、謀略の限りを尽くした奇術師に与えられた残酷な報酬。

曽我部はフリューゲルを介してその現場を目の当たりにしている。だからガイストが「いない」ことを知っている。

とはいえ、今や故人となった依頼人の遺志を尊重することに異論はない。「ガイストと名乗るハッカーがいる」と言うのならそれに基づいて調べるだけだ。大した手間ではない。

曽我部はキーボードを叩いて新たに情報を追加した。

“宿命より奇術師へ。鼠の駆除について相談あり。連絡を乞う。メール可。”

それから他の掲示板を適当に流して眺めたが、特に気になるものはなかった。

パームパソコンをそのままにして今度は携帯端末からNAB(ネットワーク管理局)のサイトにアクセスした。曽我部はNABが発行するネットワーク管理者のライセンスを取得しており、一般人が閲覧できない情報ページにアクセスすることができる。

IDとパスワードを入力し、リアルタイムで更新されていく業界のニュースページを開き、掲示板よりも入念に時間をかけて目を通していった。

気になるビッグニュースがひとつあった。

サイバーコネクト・サンディエゴ社の女会長であるヴェロニカ・ベインが監査のため来月半ばにサイバーコネクト・ジャパン社への訪問を予定しているらしいという記事。『女帝』とあだ名されるサイバーコネクト社の最高権力者ヴェロニカ・ベインはネットワークや経済関連のニュースで頻繁にその名を目にするVIP(重要人物)の一人だ。お近づきになる機会はまずないだろうが、サイバーコネクト・ジャパン社の社員たちに会って何か話を聞く際には彼女のことが良い話のネタになるかも知れない。

やがて全ての情報ページを閲覧し終えると、曽我部はパームパソコンを折りたたみ、携帯端末の電源を落とした。とりあえずこちら側(リアル)でやっておくべきことは済ませた。

いよいよ『世界(ザ・ワールド)』を動き回るのだ。

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