3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

05 バベル

事務所に戻ると深夜になっていた。

リーリエには警察へ行く前に電話して、単に今夜帰れなくなったとだけ伝えておいた。おそらくもうすでに寝ているだろう。

机の上は昨夜の晩酌のなれの果てがそのままになっていて、疲れ切った曽我部をやさしく退廃的に出迎えてくれた。曽我部は部屋着に着替えると、手つかずの魚肉ソーセージを見つけ、それを細かく刻んでフライパンで炒めて簡単なつまみにした。事務机の上の物を脇に押しやり、できたスペースに手抜き料理とタプローズの瓶を置いた。瓶の中身をウィスキーグラスに注いで一口すすると、胃に落ち着くのを待った。椅子の背もたれに身をあずけ、天井を眺めた。体が熱くなるにつれ、淀川に殴られた頬が湿布の下で疼き始めた。

まったく何という日だ、と思った。

依頼人が目の前で死んだ。飛び降り自殺。仕事の話をしている最中に突然錯乱して窓を蹴り破り、地上六階から飛び降りた。制止できなかった。あっという間の出来事。

初老の警察官の言葉を思い出した。

「多数の方の証言がありますし、発作的な自殺ということで事件性はないと判断されるでしょう……」

本当にそうだろうか?

今日の淀川の様子には確かに違和感があった。酒を飲んでいた。感情が不安定になっていると感じた。大声でわめいた。精神安定剤を服用していたとも聞かされた。

だがそれで突然の自殺に至ったことへの説明になるのか。淀川と直前まで会話していた曽我部にはそうは思えなかった。

淀川のことを個人的に深く知っているわけではない。昔の知り合いというよりもむしろ一見の依頼人と表現した方がはるかにしっくりする。その程度の間柄でしかない。しかし何かが引っ掛かっていた。あの時、淀川は曽我部に何を頼もうとしていたのか。なんと言ったのか。鼠。そうだ、鼠だ。

「鼠を退治してほしい」

と、淀川ははっきりと言ったのだ。

あるいはそれも錯乱した中でのうわごとにすぎないのか。

曽我部は『シードラゴン』で淀川から渡された紙包みを机に置いて眺めた。この品は本来警察に提出すべきであろうし、曽我部も最初はそのつもりだった。しかし現場検証に長々とつきあわされているうちに気が変わった。本当はテレホンカードを受け取った時に気が変わったのかも知れない。

カッターを手にとって、ガムテープ巻きの包装を注意深く切り取った。

黒い箱状の眼鏡ケースが出てきた。厳密に言うと眼鏡ケースによく似たものだった。曽我部はそのケースに見覚えがあった。まさか、と思うよりも先に手が動いてケースを開けていた。中には眼鏡のようなものが入っていた。だがそれは眼鏡ではなかった。ネットゲームに通じている者ならそれをFMD(フェイス・マウント・ディスプレイ)だというだろう。しかし、FMDでもなかった。曽我部にはそれがわかった。

VRスキャナだった。

しばらく動きを止めてそれを見ていた。

かつて曽我部には天城丈太郎の提唱するリアルデジタライズの思想に影響を受けて研究に取り組んでいた時期があった。VRスキャナはその過程において副産物として産み出されたものだ。光学センサーを用いて視神経と連結し、電脳世界に対して高い融和性を持つ『シックザールPC』の操作を行うことで被験者の精神的患部を治癒させる医療技術。

三年前にサイバーコネクト・ジャパン社を辞めた時に、曽我部はVRスキャナを含めた一切の研究物やデータを会社に譲渡した。曽我部が有していた開発者としての権利は全て放棄した。そういう雇用契約だった。だから曽我部がこのデバイスを手にするのは実に三年ぶりということになる。

いわば曽我部隆二の精神医療研究者としての夢の残骸。

デスクトップのパソコンを起動させると、コードを使ってパソコンとVRスキャナを接続した。

じきにモニターの向こう側に、VRスキャナにインストールされたPCデータが、コーティングを施された蝋人形のように浮かび上がってきた。長身痩躯。黒髪。軽装。ややひょろ長い手足。右目にモノクル。

すでに予想していた通りだった。懐かしき旧友、『フリューゲル』との再会だ。

なぜVRスキャナがここにあるのか。重役の淀川が持ち出したからだ。

では、なぜ淀川はそれを持ち出して曽我部に渡したのか。淀川は単に社内の人間に知られたくないという消極的な理由で曽我部を選んだのではない。曽我部だからこそ依頼を持ち込んできたということになる。

「ウィルスをばらまいているガイストのことを調べてほしい」

と、淀川は最初に会ったときに言った。その裏に何か別の意図があったことは明らかだ。問題はそこだ。淀川は曽我部に何をさせたかったのか? このフリューゲルをどのように使わせるつもりだったのか?

考え続けたせいで頭が痛くなってきた。酔いが回ってきたのかも知れない。

曽我部は引き出しを開けて一人遊び用のトランプを取りだした。パソコンをそのままにして事務机から離れ、ソファに腰を下ろすと、カードをシャッフルし、応接テーブルに一枚ずつ並べ始めた。バベルという一人遊びだ。

曽我部は頭の中を整理する時、このゲームを行うようにしている。あるルールに従って機械的に淡々とカードを配置していく。その名前は、手札をめくったりカードを詰めたりしている間に、場札が少しずつ積み上がっていくところが聖書に登場する搭を思わせることに由来している。向こうの人間のこの手のネーミングセンスには脱帽する。とにかく無心を取り戻すには最適なツールだ。

カードを並べ替えながら、曽我部は不明な事柄は全ていったん横において、即物的なことだけをぼんやり考えるようにしてみた。

料金の問題はあるか? ない。それどころか、充分すぎるほどの前金をすでに受け取ってしまっている。 

今回の件以外で優先度の高い仕事はあるか? ない。

暇をまぎらわすのに、うすらまずい魚肉ソーセージの炒め物をつまみながらタプローズをやるよりも上等だろうか? そうかも知れない……。

やがてカードは手詰まりとなりバベルは分断された。ゲームオーバー。聖書通りの結末。

仕事のやり残しは気分が悪い。それは確かだった。

結論らしきものが出たので曽我部はグラスの残りを飲み干しソファの上で体を伸ばした。そのまま寝た。

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