3rdシーズンの全作品と繋がる物語がここに。「.hack」シリーズ初のWeb小説! (著 / 矢野将之)

Web小説 「.hack//bullet」

01 呼び出し

彼は小高い砂浜に立って海の彼方を眺めている。

波の音。

潮の匂い。

朝まだきの冷たい空気にはかなげな陽の光が溶け込んでいる。

曇天の空。

傍らには女が佇んでいる。

彼よりも若い。

二十歳をいくつも越えていまい。

波の向こうで鳥が二声ほど鳴く。

「あ。コマドリ」

女はつぶやく。そして海を見たまま彼にささやく。

「ねぇ、知ってる? 渡り鳥の中には、旅の途中で立ち寄った場所にずっと居残り続ける個体がいるんだって」

ドイツ語。南部訛り。繊細そうな横顔を傾けると、ウェーブのかかった亜麻色の髪がかすかに揺れる。

海が遠くでさざめいている。

「怪我して飛び立てなくなるとか、病気にかかったとか、そういう理由じゃなくて、健康な個体なのよ。でも、残るの」

女の足元の砂がさくりと音を立てる。見れば彼女は素足だ。上品な白のセーターの上にオーバーコートをはおっているが、履いている紺のスカートは膝までしかない。陶器のようなふくらはぎがまぶしい。

「どうしてだと思う?」

そこで女は彼の方に顔を向ける。蒼みがかった瞳。

おや、と彼は思う。この女とのこの会話。以前にも経験した覚えがあるように思う。ああ、そうだ。この後で彼女は髪をかき上げて笑うはずだ。

そう考えた途端、はたして、彼女は右手で髪をかき上げて思慮深げに笑う。その軽やかな声を聞いて、彼は何かを言いたくなる。彼女に伝えたいことがあったのだと思う。

だが、彼の口からは言葉が出てこない。思い出せない。奇妙な焦りが募り始める。何かがおかしい。不吉な気配を感じる。不穏な違和感。

ふと気付くと、女の姿が滲んだようになっている。女だけではない。砂と海と陽の光と、あらゆるものがぼやけ、歪み、不透明な軟体と化していく。過剰なまでの現実感がそこかしこに満ちあふれていく。

彼は自分が目に見えない理不尽な力でこの場から引きはがされつつあるのを感じた。とっさにこの場にしがみつこうとした。彼はもっと女と一緒にいたかった。彼女と向かい合わなくてはならない、と感じていた。無駄な抵抗だった。

曽我部は夢から覚醒した。

灰色の天井を見上げたまま、しばらくぼんやりしていた。夢を見ていたような気がするが、それはすでに脳内で細かく裁断され処理され、記憶のかなたに消し飛んでしまっている。

やがて意識がはっきりしてきて、電話の呼び出し音が鳴っているのに気付いた。

曽我部はソファから身を起こすと、スリッパをつっかけて立ち上がり、事務机まで歩いていって携帯端末を取り上げた。首筋が鈍い疲労でうずいた。

「はい。お電話あり……」

しわがれた声が出た。送話口を離して咳払いした。

「お電話ありがとうございます。曽我部相談事務所です」

「淀川だ」

電話の向こうで相手が言った。

「ああ、淀川さん。どうかしましたか」

今、曽我部が取り組んでいる仕事の依頼人だ。

「話しておきたいたいことがある」

と、淀川はやや早口で言った。せっぱ詰まっているような口調だった。

「電話では言えないことだ。会ってくれないか」

「これからですか?」

壁の時計を見た。針は午後三時を回っている。

「ああ。すぐにでも」

「あー。いや。実は予定が入っておりまして。六時からなら大丈夫だと思うのですが」

「もっと早く」

「では、五時」

「五時……」

考えるような間があった。

「わかった。五時で頼む。場所は、前回会った『シードラゴン』で」

かかってきた時と同様、性急に電話は切れた。

曽我部は携帯端末をソファに放り投げると、事務所の奥にあるついたての陰に向かった。そこは流しが設置してあって、簡素な調理ができるようになっている。喉が渇いていた。

蛇口をひねって水を両手で受けると、そのままごくごくと飲んだ。うまかった。東京の水が不評だったのは一昔前の話だ。水分が体に充実していく快感を満喫すると、うがいをして、顔を洗って、タオルでごしごし拭き、少しだけましな気分になった。

事務机に戻って椅子を引き寄せ、座り込んだ。二日酔いではない。それほどの量は飲んでいない。しかし二日酔いであろうとそうでなかろうと、全身を覆う鉛の倦怠感に変わりはない。おかしな時間にソファで眠り込んでしまった。つかの間の独り身気分を楽しみ過ぎたようだった。

室内を見回した。二部屋続きの事務所。黒いリノウム張りの床。灰色の壁。それなりに高価な応接セット。事務机の上には昨夜の晩酌の名残が散らばっている。

曽我部は眼鏡をかけると、もう一度時計を見た。三時十五分。少し急がなければならない。

手早く着替えながら、淀川の電話のことを考えた。

依頼人の淀川清輝(よどがわきよてる)はサイバーコネクト・ジャパン社の重役……正確にいえば、専務取締役の一人だ。来年二〇二四年以降に発売予定の新作ゲームのプロデューサーも務めている。

つい先日、彼の依頼に関する最新の報告書を提出したばかりだった。それについて何か問題でもあったのか。あるいは。

曽我部は着たばかりのスーツのポケットを探って飴を取り出すと、包み紙をはいで口にくわえた。オレンジ味だった。

外に出て、事務所のドアに鍵をかけようとして、何とはなしに今朝の夢のことを思い浮かべた。だがその中身までは思い出せない。

鍵を回すと、がちゃりと重々しい音がした。

思い出せないのなら大したことではないのだろう。

next「02 リーリエ」へ

ページトップへ

一覧へ